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2024/05/06 |
長い沈黙をどちらから破ったか記憶にない。当たり散らすような喧嘩はしたことがなかった。読めない戦局に手を出したことがないんだ。と白状すると哀しげに指を震わせ、「部屋に、どうぞ」と招かれた。 自分とクロムの部屋のように、家具はひとつふたつで本だけ積み上がっているものだとばかり――セネリオの部屋はところ狭しと調度品が並んでおり、出窓があったため変型部屋で、わずかばかり広めだった。 「角部屋にしてください、と頼んでたのは……」 「空室を二部屋挟んでカミラとカムイが向かい合わせなのです。隣は専用倉庫にしてもいい、とヴァンドレから許可をもらっていますが、僕だけ特別扱いは困りますから」 すっと空中を揺らいで、紅茶でもいれましょうと言った。飲めない飲み物や食べ物を振る舞ってもらうようになったのは、いつのことだったろうか。複製の技術を開発したいと自分が部屋から一歩も出なくなったひとつきほどの間に、気づけばほかの紋章士は違う期待をしていた。 飲食を楽しむ術を考えてくれ。なんて。無茶で無謀な話だと思ったが、できないこともないなと頑張った。時間はかかったが、かなり近しいものになっただろう。生前の多くはただ生きるためだったそれを、一緒に楽しむための時間にできるなら。ルフレはそれを引き受け、成し遂げた。 確かに――と花を浮かべて薫りを嗅いだセネリオはいった。「これなら喉を通らないが飲んだ気にはなりますね。あなたはすごい」 ストレートな褒め言葉に「あ、ありがとう」とカップを受けとる。金の縁取りと蒼い装飾が艶やかな唇に吸い込まれていくのを、見るともなしに見ていた。合わせから微かに見える男の喉だ。動くたびにしなる。 見かけとは違い優しい声をしている。あの音を、その喉が発しているのかな、と。ルフレは相手もこちらを見ていることに気づかず、穏やかに流れるソラネルの水源の音を聞いていた。 「あなたの、悩みの続きを」セネリオは向かい合った机の前で、指を組んだ。「話してくれませんか。この間は聞きそびれてしまった」 「――セネリオ」 「僕はそのことについてもう察しがついているので、あなたが話したいことだけで結構です」 「君のことが好きって話をかい」 「ええ。…………は」 早まったかな、と目をつぶって言いきった。「性的に見てる。これで伝わった?」 沈黙が長すぎる。まだ早い。もうちょっと。部屋を追い出されるんじゃないか――と片目をあけると、眉間に皺を寄せて怒ったように遠くを見ていた。「からかっているんですか」 「……ごめん。ひょっとして言いかけたことのほうについてだった」 「あなたと僕はほとんど接点がない。向こうの世界でもほとんどクロムが代表していたでしょう」 「それはあんまり重要じゃない。あとちょうどあいつの話が出たので、言っておく。クロムは僕を『俺の半身だ』と言いきった翌週に結婚相手に似たようなプロポーズをしてる。どこで出会ったかわからない村娘だ」 「――」 「君には関係のない話だけれど、そもそも彼とは時間軸からして違う。僕が生きてきた存在証明として、自分の世界ですべてをやり直しているからだ」 「――」 「半身の説明が済んだら君に言いたいことがある。セネリオ、僕は」 「待ってください。予測してた話と真逆の話題だったせいで、脳があなたの声を受けつけない」 明確な拒絶だと理解した。机に置かれたセネリオの指が震えているのを見て、それを握りたい衝動をこらえ「すまなかった。忘れてくれ」と腰を上げる。 「逃げるんですか」 その手は通用しないよ、と口にしかけたが。見上げるその顔が混乱していたので、仕方なく机をまわりこんだ。 「竜族の伝承恵宝について、僕が、」 「よせよ。口喧嘩には疲れてきたんだ。巻物はカムイに必ず返すから……」 「その巻物について書物で読んだことがあります。てっきりその話が主軸になるのかと思っていました」 「……そっちかあ」 「間の抜けた声を出さないでください。僕が、その結論にいたったとき――どれだけ、ッ」聞いたことがないほどの焦りを帯びてた。「どれだけ、後悔したことか……」 「ごめん。君にとっては嫌だよな。というか僕も本当になんで紋章士として詠んでもらったのか、わからないくらいなんだ。ラファールと僕は反則だろう……」 世界をまるごとひとつ、なくしてるんだから。と――どれだけの血を屠ったかわからぬ人間の肉を、一瞬その手にした気がして黙った。幸いにして覚えてないだけ、彼よりはましなのかもしれない。 違う、とルフレの外套の端をつかんでセネリオが立った。現実のものとして存在する椅子が気力で影響を受け後ろに倒れる。 「あなたにいったことをだ。あなたに、自分のその血を重ねて言ったことを――」 残念なことに、穢らわしいのではなくしっかり穢れているのだ。ルフレは身を寄せた。一瞬後ずさりかける体に、杭を打ち込むようにして視線を合わせる。迷いが揺れているだけだった。 ルフレははっきりさせておこう、とその手に黒い手袋を重ねた。「そっちは僕にとってはどうでもいい。なんならいま引き裂かれようとしている兄弟愛が早々に完結して、スタルークに呼ばれた君がここから出ていってしまうことを恐れているよ」 「なぜそんなに簡単に受け入れられるんだ」 横を向いた髪を少しかきあげると、混乱しつつも理解はしてくれている、と安堵する。「僕の手はクロムを汚した。もうそれは変えようのない事実で、本当の半身は世界の果てで猛威を奮ってる。あっちが本体だ。君の拒絶を恐れていたけど、カムイが繋いでくれたし」 「――あれは、竜の血統を持つものだけに赦された呪がかけられているのです。解きほぐして発動すれば僕にも使える気がしないでもありませんが……あなたはやめたほうがいい。美学的にも受け入れがたい見た目をしていた」 「聡いとわかっていたから晒した話だが。返事を聞いてないんだ。僕は君のそばにいても赦されるのかな」 そっちは後日にしてもらえませんか――と。額に手を当て赤くなっている頭を引き下げ、髪にくちづけた。 「怒らないのか。よし、セネリオ聞いてくれ」 「紋章士の誰かなら、あなたがひとりになることはないから」手で追いやられる頬を引き離し、腰に手を回すなと追いやる腕を逆手でつかんだ。「返事はしたことにしてください。スタルークがそろそろ」 抱きすくめると、身じろぎひとつしなかった。己の喉から発したい言葉もかき消えるほど、その身が熱くなる。たっぷりの布が互いの隙間を埋めようとしたおかげで、心から渇望していた時間をその身に一気に吸い込んだ。 「はあ。いい香りだ」 「紙巻きはありませんがカゲツから煙管を預かっているので、それを持って二度とこないでください」 「これ煙草じゃないと思うんだけどなあ。君のにおいだ」 黙ったまま吸われているので、おとなしく抱き合ったまま時を過ごしていた。出窓の向こうで鳥が鳴いている。ルフレの銀糸のような髪を撫ですいた指が、消え入りそうな声でそれを言った。 「手袋をはずしてくれませんか」 「ん――いいよ」 よしきた、と体を離すと、互いの間に蒼白い線が引かれる。粒子の波間の間では、どちらが現実なのかわからぬほどに個体として相手を認識できた。手の甲の邪痕を見せると、震えた指が絡みつき、もういいですとおろさせる。 「聞かないの」 「時間がありません。それにもっと重要なことができましたから」 逃げられる前に手を添えた。互いの指を直に絡めたのはれそれが始めてだった。 同じ熱量で人を愛せるかはわからなかったが、そうしてみようと思った。 |