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2024/05/02 |
眉間の奥に突き刺さる痛みを覚えて、マルスは、なんだろう……と戸惑った。 見覚えのある寝台から重い体を起こしたいが、まったく起きられない。人影が何か爽やかな鼻息を立てながら、「あっさでーすよー」と歌っていた。 薄目を開けると、まぶたに落ちるやわらかい唇の感触に戸惑った。はっとして目の前の人物が明確になるまでまばたきを繰り返す。 優しげで、儚げで、華やかな色の髪に手を触れた。くすぐったそうにしている。ここが楽園か。 「起きられますか? マルス」 「うん……なにかとてつもなく……」 「いい夢でも見れましたか。なんだか笑っていましたよ」半身を起こすと真新しいシャツが背中にかけられる。「ああ、すみません。誰かを起こすの、一度やってみたかったんです。起きたら朝食ですよ。大丈夫! 私は料理の腕も相変わらずですが、新しい守り人の――」 「ふふ」肩を震わせておしころした声が、堪えきれず漏れてしまう。「ごめん。リュール。およそ千年前から、肉体を得るまでのことは頭に入っているさ。君の横に……」 「見えないけど突っ立っていた、ってなんだか恥ずかしいですね。そうとはしらず、あれもこれもこの失敗やこの発言も、全部聞かれていたってことでしょうか」 「封じ込められた約束の指輪から出られなかっただけのことだから」マルスはベッドから立ち上がろうとするリュールの肩を自分の側に引きよせて、抱き締める。「ああ、もうちょっとこのままで。リュール、最近また少したくましくなった気がするけど?」 「……マルスが目覚めるかもしれませんから、恥ずかしくないように鍛練を重ねていたのも、知られてますよね」リュールはかあっと熱くなる自分の頬をマルスの肩に埋めた。「すみません。ちょっとでも万全な……というか、いい格好の彼氏を演じたかったのですが……」 「そんなこと言ってたね。第66代守り人の『ヴァンドレ』も」 天涯の向こうからコンコン、と軽い音が響き、「神竜様。起きておられますか」と懐かしい声がした。リュールが斑点だらけのマルスを見せまいと、マルスのシャツのボタンに手をかける。「わ! 待ってくださいヴァンドレ! いま起きたところです」 二人とも、と囁く唇をふさいで、その顎に手指をかけた。生前よりしなやかで動きやすい自らの肉体も、紋章士となってからは重力とは無縁の世界でいたため、かなりの時間を要することは想像にかたくない。 「マ、ルス。駄目です。ヴァンドレは同じ名前の昔の彼より、時間に厳しいから……」 離れがたく身を起こせば、扉の向こうで躊躇っている気配だけが残っている。マルスは半裸より少しはマシな状態に最大限素早く着替え、すでに起きているにもかかわらずリュールの頭からシーツをかぶせ、横になっててと微笑んだ。 その艷やかな笑みときたら。リュールは心臓をわしづかまれた心持ちがしたが、かろうじて指示にはしたがった。 扉を開けにいったマルスは、想定よりずっと若い『第66代目神竜の守り人ヴァンドレ』を見上げた。「おはよう。昨夜はありがとう。リュールも混乱していたけど、君が僕の身の回りの品をすべて手配してくれていたおかげで、とてもよく眠れたよ。明日からは指定された部屋でちゃんと――」 「そ、それには及びませんぞ」このヴァンドレは白髪でもなければ髭も蓄えていなかったが、大きな体躯を縮めていくぶん硬い言葉で話すのは、その人の血を感じさせた。「リュール様のお部屋からマルス様の部屋まで回廊で繋げてありますが、どちらのご寝所で休まれても対応はいたします。今朝も起こしにくるかどうか非常に迷ったのですが……」 ヴァンドレは聞いてはいたが見慣れぬ青年の姿形に目のやり場がわからず、さりとて遠い昔の王族であった逸話も聞いていたため、マルスが望むよりずっと儀礼的なというか、慇懃無礼に近いほどの圧力で持って使命を遂行しようとしていた。 「リュールはまだ寝ているようなんだ。起こすのに少し手間取るから、よかったら朝食は皆で先に――」 「それがその。じきに昼食のお時間です」 「……」 リュール自身が寝ぼけなことを計算にいれていなかった。おそらくギリギリまで待った結果の今なのだろう。マルスは天涯の向こうで身じろぎするシーツの山を見つめ、後ろ手に半開きの扉をしめた。 「ありがとう、ヴァンドレ。実はふたりともいま起きたところなんだ。僕としたことが、はじめての朝にこの有り様で情けないよ。すまないけれど、もう少しかかりそうだ」 「は、はっ。いくらでもお待ちいたしますぞ。ご所望でしたら昼食もこちらでお召し上がりに」 「さすがにそこまでしてもらうのは、申し訳がたたないよ。君のご先祖とは長いつきあいでね。彼自身は僕のことをほとんど知らないも同然だったけれど、僕は彼が子供の頃から見知っていたんだ。君と風体から雰囲気までそっくりで、はじめは驚いたものだ」 「……我が家の文献に残っております。マルス様、よくぞお戻りになられました」 やり取りのすべてが懐かしい人たちを思い起こさせる。長い長い歳月をかけて、ほとんどが失われた伝説に近しいお伽噺になりかけてはいたが、リュールの治世が紆余曲折ありつつも数百年の平和を取り戻したことは、本当に嬉しかった。 マルス自身は自分がアリティアの国を納めた記憶を持たないし、志半ばのところで切り離された魂の一部であることをすでに自覚している。それでもリュール以外の人間と少し話をするだけで、喪われた人間としての時間や取り残された過去の潰えてしまった野望に、きちんと蓋をすることができた。 「マルス。ヴァンドレはなんて……?」 「もう少し寝ててもいいって話だったけど、僕の体を心配してくれていたよ」マルスは頭を掻いて、照れくさそうにいった。「こうして誰かと言葉を使って話せるのは、ありがたいものだね。返事が返ってくることをあたりまえのように思っていたから、次の千年は短いようで長すぎる時間だった……僕を待ってくれていた、君とはくらべものにならないだろうけれど」 「いいえ」リュールは天涯の紗布から覗く、懐かしい人のシルエットに目尻を潤ませた。「マルスが待ってくれていた時間の、何分の一にも及びません。これからですよ」 うん、と遮るものに手をかけてこちらに微笑みかける優しい顔と、伸ばした手をもう二度と離さないと誓った。 ――静かにそよぐ風の音色が、美しく彩る。 この地に宿る精霊の加護と、紋章の名前を捨ててよみがえる覚悟をつけた二つの魂に祝福を捧ぐ。 |