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2024/05/02 

 空に昇る月を見上げるとき、思い出す光景がある。
 それが確かに現実のものであったかは、知るすべはない。でも間違いなく揺れ動いた感情が、いまなお誰かの心の中で眠りについている。
 僕らはそういう存在なのだと、千年を過ぎる頃には気づき始めていたんだ。

 リュールは目覚める前に誰かが話していたことを反芻して、ハッと息を飲んだ。探した場所に、その存在はない。別れを口にした次の朝には、感じなかった気持ちだった。いつからだろう。当たり前のように感じていた大切なものは、彼の手からすり抜けて飛び去った。ソラネルのどこで寝起きしていても、かつての仲間や紋章士たちの笑い声は聴こえない。
 時は過ぎ行き、何人かの仲間もこの世を去った。大きな戦争は起こらなかったが、時間の流れは残酷だった。リュールにとっての一年は彼らにとっての一生であり、ゆっくりと着実にその記憶から消え去ろうとしている。
「マルス……」
 懐かしい名前だった。口にするだけで甘い気持ちが頬をほころばせる。別れの日から数十年、夢にさえ現れたことはなかった。手元に描かれている精巧な映し絵がひとつ、彼の不在から来る感情を優しいものに変えてくれている。
 リュールの泣き顔は見たくない、笑顔で別れようと言ったその人の目にも、涙は浮かんでいたように思う。寂しさでおかしくなりそうな夜に、約束の指輪を手元に残すと言ったとき。それ以上何も言わなかった護り手の表情が、大きく曇ったことを思い出していた。
「君の寿命は、人のそれより長い。深く考えなくても、傍らにいる人を選んだほうが君のためだ。血の繋がった家族以外のね」
「わかっています。それでも……」
 互いの間を行き交うその感情に、名前をつけたことはなかった。天涯の紗の向こうには、朝焼けが顔を覗かせ始めている。常なら理論的に自分の間違いや誤った選択を正してくれようとする雄弁な唇が、閉じたまま開こうとしない。
 暗闇のなか、目があった。何が起きるか、何を手離しどうするかについて、語り合わなければいけないのに、それだけで。
 引き寄せるように、引き寄せられるように、宙を掴む。整いすぎた端正な顔の輪郭に、指を滑らして視線を奪った。膝をついたベッドから体を持ち上げ、逃げようとしない相手の顔のぎりぎりまで近づく。
「リュール」
 君に触れることさえできない、と言ったのだったか。そんなことはたいしたことじゃなかった。目をとじれば折り重なるべき場所があり、触れあっていると感じられたから。
「言葉が、私たちを繋いだんです」
 リュールは静かにいった。手のひらを差し出すと、優しく白いが剣を握るものの指だとわかるその手がさ迷い、その上でぎゅっと握られた。
「マルス。震えているのですか」
「……寒いわけではないよ」
「香りは感じるのに、不思議ですね」
「それも不確かなものだ。リュール、僕たち紋章士は肉体は持たず、僕の元になった存在であるマルス本体と切り離されている。それがいつどうしてそうなったのか、今となっては知るべくもない。おそらく女神の加護や、竜の末裔による何がしかの運命だったと記憶しているが、詳しく考えることも許されていないようなあやふやな存在だ」
「……」
「以前にもこういう状況におかれた何人かの存在と出会ったことがある。この世界とそっくりな世界の平行線であったり、隔離された異世界であったり、さまざまな状況に置かれた魂たちだ。彼らは死んでるわけではないが、生きているとも言いづらい。僕らのように完全なる精神体で指輪やフィギュアと呼ばれる人形、魔符と呼ばれるカードに収められている魂もあれば、完全なる死者となって傀儡として動いている魂もあるそうだ」
「それは……ヴェイルが私を復活させたやり方とは、また違うんですね?」
「魂だからね。肉体を持つものもいれば、持たないものもいる。そしてそもそも、自分がどういった存在であるのか、知らない者のほうが多い。僕の知る限り、本体と完全に切り離されている自覚のある者は、指輪の紋章士だけだ」
「……なぜ紋章士だけなのでしょう。他の存在は、例えば魔符に宿るあなたは、自分自身がマルス本人だと確信を持っているわけですか?」
「おそらくね。紋章士としての僕は僕自身に出会ったことはいまだないんだ。しかし、魔符というのはカムイの世界でいうところの、移し身の術のようなもので……忍という忍術を使う者たちが編み出したらしいが、自分そっくりのカラクリを操る技のひとつなのだそうだ」
「それは、先にいったフィギュアという人形の仕組みとは、また違うのですね」
 マルスは頷き、どこまで話すべきかという顔で下を向いた。「魔符は個別の背景を持たない、本体から一部だけを切り取った存在だと聞いたことがある。それゆえかなりの制度で近しい者の記憶を正確に熟知しているが、ある一定の記憶量を越えると上書きされてしまう儚い存在だ。フィギュアは立体的に複製されているがゆえに、かなり複雑に性格の回路がつくられているが、紛れもなくつくりものだ。単体ではなく複数の僕に分けられて生成されている」
「……マルス本人とは、違うのですか?」
「何をどういじくりまわしても、本人そのものにはなれないらしい。それはもちろん僕ら紋章士も同じだが、厄介なことに僕たちは指輪に収められる直前までは完璧に同じ存在なのだ」
「私が元と変わらぬまま、私そのものであるように……ですね」
「ただし、それ以降のことは……たとえば自分が死んだ後の世界で起きた話について、僕はほとんど紋章士たちに聞いたことがない。彼らも話すべきこと話さぬべきことを選んでくれているのか、僕が君と眠っている間に別の存在である僕と出会って、話してしまったことをやり直している可能性もあるけれど……」
「やり直している、としたら。あなたがショックを受けたり、それによって豹変してしまったりしたことがあるからですね」
「薄々は聞かなくともわかっていることが多いさ。ただ、たとえばルキナのことだけど」マルスは困ったように眉を下げた。「いくつかのタイプの彼女に出会ったことがあるが、母親の名前がころころ変わるんだ」
「……え?」 
「父親の名前はいつもおなじなのにね。それにつきあっている人の名前もバラバラで、修羅場が起きたことがある」
「しゅ、修羅場? どんな?」
「結婚して子供も産んでいた魔符のルキナと出会ったんだけど、その相手がルフレだったんだ」マルスは口をぽかんと開けたリュールにうなずいた。「たまたまその場にクロムがいてね。腕輪の中で引きこもってるルフレを呼び出そうとするんだけど、慌ててとめたよ。魔符のルキナは切り離されているから、こちらの事情は知らなかった。ルフレがいるなら会いたいというんだが……」
「こっちのルフレは独身ですからね。しかも紋章士ルキナは、ベレトとちょっといい雰囲気でしたっけ」
「ルフレもルキナのことは憎からず思っているはずなんだけどね。あの一件以来、クロムが出したがらなくなってしまったし」
 ベレトはベレトで独身なのである。きっかけが何かは知らないが、ふたりが一緒にいる瞬間をよく目撃するようになった。リュールは聞いてみたいことをひとつ思い出した。
「ヘクトルとリンがつきあってない世界線があると聞きました」
「ややこしいだろう? 安心材料みたいに言われてきた既婚者確定のはずのふたりが、ああなってるし……」
 リュールはマルスが言いたいことに、ようやく当たりをつけた。
「あなたは英雄王。即位する予定だった王子ですからね」
「……リュール」
「愛する人がいたと聞きました。魔符などで会えることはかなわないのでしょうか」
「仮にそうできたとしても、彼女の傍らにいるべきなのは僕ではない可能性もあるよ」マルスはきっぱりといった。「なにより、いまここにいる僕はもう別の世界では留まれない。紋章士として存在した時間は長すぎるんだ」
 リュールはぐっと息をつめ、話すべきことを整理した。しんとした静寂が流れ、そこだけ柔らかだった手元の机にある灯りが揺らめく。朝焼けはゆっくりと着実に、マルスの存在を薄らがせていった。
「……マルス。私はあなたが好きです」リュールはその瞳の煌めきを見失いたくなかった。「約束の指輪が受け取ってもらえないことはわかっていました。たとえ望んでもつけられないと断られた時点で。だから、私はこれを誰にも渡さず、持っておくことに決めたんです」
 あなたを想うことを、赦してくださいませんかと。いいかけた口元に、手が伸びて遮る。
「永久にではないよ。渡していい人が現れたと君が思えるまで、その指輪は君のものだ」
「渡したいのはあなただけ。私がほしいのもあなただけです」
「……それはできない」
「あなたと想い人の記憶に関係はありますか」
「シーダは」リュールはその名前をはじめて聞いた。「彼女は記憶の中だけにあるものだ。僕の気持ちは君に言ったとおりだよ。僕も君を愛している。ほしいのは君だけなんだ」
「……だったら」
「だからこそ、君をひとりにしたくない。わかってほしい……約束の指輪は受け取れない。君になにも約束ができない、あやふやな存在だからだ」
「それでもいいと……いったじゃないですか……」
 マルスはハッとして、リュールの目に浮かんだものを掬い上げるように眼差しを向けた。
「マルスが私を心配してくれていることはわかります。あなたがいなくなったあと、別の世界のあなたは、違う誰かと一緒になっているかもしれない」リュールは詰まる声を抑えた。「魔符のルキナがそうであったように、一目でいいからとあなたを求めたら、違う誰かがあなたを独占している。それでもいいんです」
「リュール」
「指ひとつ触れなくても、と願った夜がありましたよね。あなたと同じ紋章士になったことで、私は願いを叶えてもらいました。ずっとひとりでいるかどうかはわからない。できればあなたと共に歩む道を見つけたい」
「……」
「すがることさえ、赦されないのでしょうか」

 方法を知ってさえなお、互いの手をつなぐのに途方もない時間がかかった。

 あとひとつだけ、可能性がーーといったマルスは、それが本当にリュールのためになるのか、自分の渇望に従った結果ではないかと知りつつ、はじめて自分の身を任せた。

 なにひとつ背負うことのない魂。


 ――約束の指輪そのものに宿る対の紋章士として。




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