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2024/05/02 

 磨耗した革の鞍を取り換えるだけで、ヴァンドレは大きく息を吐いている。引退の日も近いのかもしれない――とセネリオはその姿を見て思ったが、何も言わずエレオス大陸の雄大な大地から吹き上げる風に揺られていた。
「不思議なものですな」本を手に姿勢を崩さない綺麗な面立ちを眺めると、紋章士が振り返った。年長者には相応の礼を尽くすセネリオが「何がですか」と続きを促す。言葉はなかなか返ってこない。それなら、とヴァンドレと同じ方角を眺めて、「まあ、不思議なことしかないですね。ここは僕の元いた世界ではなく、人としての肉体も今はない。記憶だけがある」
「もどりたい、と思ったことは?」
 冗談がすぎるといわんばかりに、セネリオは顔をしかめた。また視線を泳がせて、「あるのかもしれません。まあ、戻ったところでアイクはともかく、僕の居場所があるとは限らない――」
「そのようなことはないでしょう。セネリオ殿は……」
「気を使ってくれなくていいのです。今は僕の機嫌を損ねたところで、腕輪は貴方の腕におさまっている」ため息を隠すように、鼻から息を押し出した。「鎖のようなものですね」
「鎖、とはまた面妖な。しかし実際、貴殿方は――紋章士をやめたい、と思ったことは、一度もないのですか?」
「僕はありません。アイクのいるところが僕の居場所ですから」
 ううむ……と唸って、ヴァンドレは髭があることを幸いに思った。聞いている方が恥ずかしい。「アイク殿は幸せですな」
「あなた方の神竜リュールも、幸せでしょう。今の彼にはたくさんの味方や、仲間がいる」
 その何気ない言い方で、セネリオが本当に求めているものは、やはりーーと寂しく思う。ヴァンドレはなんといっていいかわからず、馬の背中を撫でながら「ですがそのうち、神竜様も鬱陶しいと思われる日が来るかもしれません。我々のことを」
 セネリオは首を振った。「だとしたら、贅沢なことですね。僕の世界では、竜族は……竜鱗族はその生まれの最初から意味嫌われるものでした」
「セネリオ殿は……」ヴァンドレは聞けるのは自分くらいだろう、となぜか他愛ない会話にもつき合ってくれるセネリオを思って、静かに言葉をかぶせた。「我々のことを、鬱陶しいと思われますかな」
「そういう紋章士はいますが、それはあなたではありません。僕たちは運命共同体なのです。指輪も腕輪も使われなければ、がらくたに過ぎない」
「私は! 私は、紋章士をがらくたなどと思ったことは一度もございませんぞ。神竜様だってそうです。セネリオ殿」
「――ときどき暑苦しいくらいに口が廻る、あなたとのお喋りも楽しいのですが」セネリオは少し下を向いた。「そのくらいにしてください。僕は自分の感情を表現することに長けていません」
 ヴァンドレは抗議するかの如く、鳴いた愛馬を慌ててなだめた。「これは失礼しまし――こら、こら! 私の失言です、セネリオ殿。御許しください。どう、どう!」
「……やっぱり少し風に当たってきてもいいですか。近くを浮いていますので」
「ご、ご自由に」


 今日は厄日だなあ……と声が聞こえる。セネリオは踵を返してヴァンドレの元に戻ろうとしたが、「あ」と見つかった。珍しく外套を脱いだルフレが、のびをしていた腕をおろす。
「セネリオ! ちょっと手伝ってくれ」
「力仕事なら嫌です。もっと適任がいるでしょう」
 魔道書でしか浮かせられないよ――と大岩を示す姿が一瞬で消えて、目の前を体ごと遮られた。「すまないね。人手が足りないんだ――食堂でボヤがあったらしくて、みんなそっちに」
 最後まで聞くことなく、セネリオも、ぱ、と姿を消してしまう。ルフレの予想に反して、すぐに戻ってきた。「ヴァンドレに知らせてきました。火はもう収まっているようでしたが」
「ん。だからそれを言おうとした」腕組みをした手に、黒い手袋がそのままである。ルフレの体格にしてはたくましい腕に一瞥をくれ、「なぜ紋章士であるあなたが裸同然に?」と聞く。ルフレは「これが裸なら腕を出しているクロムは半裸、アイクは服を着てない扱いでいいだろう」と苦笑する。すがめた目がひとつも笑っていなかった。
 なぜ、彼とはこうまで馬が合わないのだろう――とセネリオ自身も不思議に思っていた。同じ参謀駒でライバルのような関係だと定義づけるものもいるが、どちらかといえばセネリオはルフレの策を気に入っていた。理論だっていてわかりやすく、偉そうに威張ることもなく常とはならずも対等――近距離で一緒に闘うと面白いほどに意志が伝わる。攻撃と防衛、バランスよく共にいて頼れる相手だと――しかし、とにかく傍にいるとイライラさせられるのだ。そのへんに浮いてるだけできびすを返してしまうほどに。
 理由がさっぱり思いつかない。強いて言うならマルスと似ているとチキが指摘した通り――穏和な仮面の裏の顔が少し気にさわる程度だ。しかし同じ飄々とした態度なら、いちいち絡んでくるクロードのほうがよっぽど腹が立つ。ルフレはセネリオに配慮して、本当に困っているときしか頼っては来ないが――。
 セネリオは動揺を悟られないよう唾を飲み込み、ため息で応じた。
「仕方ありませんね。お手伝いできることを言ってください」
「とても助かるよ」ルフレは玉の汗をぬぐって笑った。紋章士も疲れるのは同じで、その記憶から最低限の生理現象は備えている。「君に断られたら、どうしようかと」
「この岩、どこから飛んできたんでしょうか。昨夜までありませんでしたが」
「あっちに見える浮遊岩礁」
 指差す方向を見やると、空に点在する島々のうち比較的小振りの島を見つけた。身近な太陽を遮りひさしをつくると、表面がえぐれているのがわかる。
「遠すぎます。竜が蹴りあげでもしない限り――」思い当たって、セネリオは眉をひそめた。「チキは昨日フォガートと一緒にいましたね」
 小さな竜人とお祭り大好き男のコンビが今週のラインだったな、とあたりをつける。よくわかったね、とルフレが困ったように頭を掻いた。数日前のやり取りを自分も覚えていたからだ。

 参謀勢とリュールのみでの集まりを定期的に開こうと提案したのはセネリオだった。いかに苦手な面子であろうと、協力すべきときは必ずくる。苦手だからこそお互いの弱点をつける嫌な策を思いついたりもするし、各自の長所を伸ばすメンバーの切り替えに役立つかもしれない、と思ったのだ。
 てっきり断られるだろうと鷹を括っていたら、意外だと思われたらしく罰が悪いことになった。チキとフォガートの組み合わせは、ルフレの提示した策のひとつだった。
 クロードが『俺では思いつかない組み合わせだな』と口笛を吹いたのを『僕もです』とうなずいたのが一昨日だ。
 エレオス大陸全体の地図を大机に広げながら、ルフレは淡々と『相性さえうまく決まれば、かなり督戦性の高い闘い方ができると思う。ただ、懸念がひとつあって』という言葉をセネリオが不審に思って、口を開きかけたが間に合わない。クロードお得意の『ま。なんでもやってみなくちゃわからないんじゃないか?』の一言で決まってしまった。
 リュールは三人が話す間、口を挟まずしっかりと聞いていた。セネリオは見立てた通りだ、と内心の安堵を隠した。長老であるリュールの参謀が三人となると、足並みが揃わなくなる。ことさら深く話したわけでもないのだが、四人同じ大部屋にいるだけで神竜は短期間のうちに各々の性質や性格を見抜いていた。
 それはあまり人づきあいをしたくない自分にとっては、その場にいるだけで苦行に近いものがあった。ただ、弱点を知られたくないと思っているのは自分ばかりのようで、リュールのほうではセネリオの視線に気づき、『皆さん、この場にいてくださって、ありがとうございます。とても勉強になりました』と曇りなく快活に微笑んだ。
 本来、自分にとって仰ぎ見るのが当たり前だったその場所に立つ者とは、真逆といっていいほど明るい竜の子。自分とて何も感じていないわけではない――避けているわけではないが、生来無口なアイクとはほとんど会話もしていないため、ちゃんと馴染めよ、とだけ言われた言葉が響いていた。リュールの役に立てたと思うと胸がふわりと暖かくなり、隠している自分の素性を、彼にだけは晒してみたいとまで思うようになっていた。
 懸念している、のひとことを聞き流したのは、自分の失態だった。

「……どうする? このままだとソラが寝床に入れない」
「しばらく神竜のところで寝かせればいいでしょう。岩の方は時間をかけて、あなたと僕で砕いていけば」
「駄目なんだそうだ。この子もただの犬みたいな顔してるけど」フャンと間の抜けた声が足元からする。ルフレは水色と白のまるっこい生き物を抱き上げていった。「この洞窟でないと絆石がつくられない」
「この子の排泄物はなぜ通貨がわりなんでしょうね」
「……リュールとヴァンドレ以外はみんな疑問に思ってるけれど、直球だなあ」
 ルフレの呆れた声に構わず、セネリオは目をつむって魔道書を取り出す。ルフレは慌ててその腕を押さえた。「あ、待って。この岩、実はまだ熱風が吹き出るんだよね」
「――チキが蹴りあげたんじゃなく、噴き上げたんですね」
 あの惨状は炎の威力によるものか、と浮遊岩礁を仰ぎ見ると、改めてぞっとした。ルフレも同じ心持ちだったようで、ははは……と乾いた笑いをもらす。何がどうしてチキとフォガートの中でああしようという話になったのか、皆目検討がつかない。もしこちらで同じことが起きていたら――大岩に軽く手を当てると、熱についてはわからないが確かに脈動している。
「信じられないだろうけど砕け始めると精神体の僕らでも熱いから、服を着るか脱ぐかしたほうがいい」
「チキが吐いた炎ですから、紋章士にも影響するというわけですか」
「生身の人間が砕くとどうなるか知りたくないね」
 本当に。セネリオはルフレを見た。

 本当に――困っているときしか。

「……そんな目で見ないでくれよ」ルフレは呻いた。「ごめん。前日に思いついたときは、腕輪の中で小踊りしたくなるほど良い組み合わせだと確信したから提案したのに。僕のせいだ」
「責めているわけではないです」
 セネリオは迷った。人前で肌をさらすのはほんのわずかでも抵抗がある――察していたのかルフレが「人払いは頼んであるよ。紋章士はどうしようもないから、完全ではないけれど。薄着になるのが嫌なら、君がいった通り順番にやってもいい。そのぶん時間はかかるけど」
 どうする? と拳ひとつほど小さな男が、聞いてくる。シールドでは対応しきれない大きさの質量だ。自分の腕輪が対処できないほどの損傷を受けたとしても、戦力からはずしてもらえばいい――そんなことまで考えるほど、抵抗があった。
「やります」二重巻きにした色違いの帯をするりと引き抜く。腰に巻きつけてある鞄のベルトをはずすと、向こう向いてようか、と咳払いが返る。「人が来ないなら構いません。ただちょっと待ってください。僕の服はあなたのものより複雑ですから」
「その気になれば消すこともイメージできるけど、落ち着かないよね」
「なるべく人間のときと同じでありたいですから」
 首回りのベルトと二重回しになっている袖を先にはずすと、「へえ、そうなってたのか」と遠慮のない声が。「ご、ごめん。僕の世界にはそういう――カゲツのような袖の長い和装? はあんまり見たことがないから、どうなっているか気になってたんだ」
「僕の世界でも少ないです。見ますか」
 脱いでるのを見られるのは落ち着かないため上衣を渡すと、興味深そうに裏を返している。ルフレの上着はどうしたのかと聞くと、木陰に置いてあるというので、そこに置いてくださいと袖の隠しボタンをはずしながら振り返った。
「……なにをしているんですか」
 ん? ああ、ごめんと顔を上げる。人の上着にぱふんと顔を埋めていたルフレは、悪びれなく答えた。
「紋章士はみんな香りだけはわかるだろう? クロムの匂いはわかるけど、他の紋章士に嗅がせてくれと直接言うわけにもいかないから」
 木陰の上着を指一本魔力で浮かせて、嗅いでいいよと差し出される。即座に断ろうとするが、「君、お香のような独特のいい匂いがするんだよね」と気になることを言われた。
「……鞄に詰めてありますよ。そういうあなたもときどき何か香るのですが」重みのある上着に鼻を当てると、微かにルフレの匂いがする。「煙草でも嗜むんですか」
「煙草。僕の世界の煙草はあまり質がよくなかったけれど、この大陸では盛んらしいね。匂いかあ……僕どんな匂いするのかな。今は汗くさくって、どうなってるのか……」
 上着を大きく吸い込んで、ルフレの首筋をすんすんと嗅いでみる。
「気になるなら、温泉はいかがですか」セネリオはいった。「ソラネルのお風呂はいいですよ。アイクとセリカに勧められて、いやいやでしたがひとけのない時間を選び、一人で浸かりました。僕らの体感は記憶がそうさせてるだけのもので、実際には相手によって受けとるものが違うみたいですから――どうしました」
「……臭くなかった?」
「全然。木立の薫りが移っていますし。朝から作業してたなら呼んでくれてもよかったのですが」人の上着を抱えているところを見られるほうがまずいと気づき、押し返す。「水の感覚は新鮮でしたよ。煙草は人によって好き嫌いがありますから、あまりお勧めはしませんが」
「セネリオは嫌いかい」
「香と同じで好きですね。自分でも吸ってみたのですが、ひょっとしたらその匂いかもしれない。ソルムの煙草はフルーツの香りづけがキツいので旨くはなかったけれど、花由来のフィレネはとても好みでした」
「意外だな。セネリオが吸ってるとこ見てみたいよ」
「……一服するのは腕輪の中ではなく、室内と決めているのです。紋章士のためにも、とリュールが割り振ってくれたおかげで、どちらも自由にできますから」
 外でこなす仕事量が増えるにつれて、朝夕どちらも活動している紋章士が増えた。彼らの間では指輪や腕輪に宿っているときは、眠りというより微睡みに近い状態だ。つけている者の意思に反して、常に耳をそばだてるようなことはできないし、戦闘が終われば指輪そのものは紋章士の間にある。
 しかし時が経つにつれ、それだけでは互いを呼びあう場合に不便が増えた。指輪なのだから紋章士の間にいるだろう……と誰かが見に行ってもソラネル内で歩き回っていると返事ができなかったり、そもそも声をかけることを躊躇したりで行き違いが増えてくる。拠点を増やせばよけいに悩みが増えるのでは、と進言したが、実際は驚くほどスムーズに個人感のコミュニケーションがはかどった。ただし――。
 セネリオはいった。「紋章士の間では仕事上の決めごとも通用しましたが、今回のようなことが毎回起こると……」
「待ってくれ、セネリオ。誰か来る」
 近くをさ迷っていたソラが見えないと思っていた。雑談をしてしまったせいで、と脱ぎかけていた服の襟を合わせるが、遠くの坂から手を振っているのはヴァンドレだった。「失礼。神竜様から話は聞きました。力仕事なら何か手伝えることはないかと」
「いけません。今朝から体調が優れないのでしょう」セネリオは迷っていった。「足がふらついていらっしゃる」
「まだまだ若いものには――」いいかけて黙った。「すみません。気づかれていましたか。実は厩戸のほうに先ほどチキが来たのです。それで、お二人にお話が」
 顔を見合せると、ルフレがうなずいた。
「食堂のボヤを片づけていたとき、フォガートの様子がおかしいので私が指輪をあずかり、聞いたのです。あの大岩ですな? なぜ、皆は私に――いや、そんなことはいいのです」
「ヴァンドレの体調については、参謀組で話し合っていました」セネリオが繋いだ。「本来なら耳に入るはずだった浮遊岩礁でのことを聞けなかったのは、僕がいたからでしょう」
 ヴァンドレの驚いた視線を受けて、ルフレが返す。「今期はなるべく負担のないよう、クロードも入れた僕らのローテーションを組む算段が整っているんだ。射撃は得意としないヴァンドレに彼をつけても意味はないかもしれないけど、セネリオと僕なら遠隔も可能だから」
「なんと……」
「あちらは実質三人体制ですから、適応しやすいだろうと話をつけました。本来なら耳に入れるべき内容も、少し省いています。あなたには休息が必要だから」
「――かたじけない。そんなことも知らず、私は」
「チキが来た、っていったね。まだいるのかな」ルフレが促した。「実は何があったのか、僕にはだいたい読めてるんだよ」
 二人の視線を受けて、「チキ、いるんだろ。大丈夫。出ておいで」とヴァンドレのポケットを見る。ヴァンドレがセネリオと目を合わせ、うなずいた。取り出した指輪から、可愛らしくも幼い緑の紋章士の声がする。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
 鼻をぐずらせる音だけが響き、姿を見せなさいと叱責するヴァンドレを止めて、セネリオがいった。「ごめんなさいは目を見てしないと伝わりませんよ。何をそんなに恐れているのですか」
「……チキ、セネリオ殿の言う通りだぞ。幸い、ここには優しい紋章士様が二人と、私しかおらん」
 セネリオは自分がその言葉にふさわしいとは全然思えなかった。しかしチキは姿を表し、膝を抱えてしゃがみこんだ姿で浮いたまま、下を向いている。
「チキ。じゃあ、僕としゃべろうか。フォガートと喧嘩したんだって?」
 ばっと顔を上げた姿は、かわいそうになるくらい涙でぐしゃぐしゃだった。真っ赤になりながら、「フォガートは悪くない!」と叫ぶ。「お願い、ルフレ……チキ、チキが悪いの。フォガート、チキのこと嫌いになった? うまくやるから黙ってて、って言われて、それで」
「フォガートがそそのかしたんですか」セネリオはまさかの答えにカッとした。ちがう、ちがうと小さな手で頭を振るばかりだ。「チキ、落ち着いてください。こういう役割に僕たちが慣れているとあなたも思っていないでしょう」
「話が読めませんな」ヴァンドレは鼻を拭かせようとハンカチを出して、紋章士にはそれを使えないことにあたふたとした。セネリオがそこに手を翳す。触れるようにするための複製は可能だった。自分も持っているが、子供をあやすのはヴァンドレのほうがいい。
「おお」二重にぶれてみえるハンカチがひとつになり、青白く輝く。「チキ、ほらチンして」
 差し出したヴァンドレのハンカチに目をとめて、チキはプルプルと頭を振る。ヴァンドレの助けを求める顔に「仕方ないですね」とセネリオは膝をついて腕を広げた。「今だけですよ」
 普段より軽装のセネリオのことを、チキは不思議そうに見る。大岩に目をやろうとする腕を引いて、「ほら」と胡座をかけば、一泊おいてセネリオに抱きついた。
「ごめんなさいぃ……!」 
「わかりましたから、後ろ髪を引っ張らないで」二手に分かれた髪の毛のひと束を、無意識に引っ張られて顎をしゃくる。「どうしたというんですか。あなたらしくもない」
 すかさずヴァンドレがチキの顔を拭ってやる。垂れてきた鼻水を押さえる小さな手が、セネリオから少し離れて、覗きこんでくるルフレのほうを顔を仰ぎ見る。
「フォガートと離れたくない。フォガートは悪くないの」
「うん、わかっているよ」ルフレだけは落ち着いていた。「チキ、フォガートと遊んだこと、なかったもんね。やりすぎちゃった?」
 え、と声を漏らしたヴァンドレと目を丸くしているセネリオに構わず、チキは困ったようにルフレを見つめた。頭を優しく撫でてくる。
「はじめは、怖かったの。チキ、昨日眠れなくって、だめってセリカに言われてたのに、お部屋からこっそり出ちゃって。夜更かししてたフォガートに見つかって」
「ふむ。なんとなく話が読めてきましたぞ」
「僕には相変わらずさっぱりです。チキ、それで?」
「フォガートとチキ、まだエンゲージしたことないの。一緒になって、って言われてから、楽しみにしてたのに。フォガートは強いから。チキ、隣でやっつけるだけでいいからねって」
「一人で十体、ってやつだね」ルフレは苦笑した。「しばらくマルスと組んでたから、単独でガンガンいくのに慣れちゃってるんだよ」
「マルス様も見かけによらず無鉄砲なところがありますから、あの組み合わせは慎重にしようと話し合いがついたとリュール様から聞いております」
「チキ、」セネリオが唇を結んだ。「マルスのほうがいいと言うなら、それで構わないんですよ。何もあなたが、あのお祭り野郎につき合うことはない」
「ううん! チキ、フォガートのことすごく好き」ぱあっと無邪気に笑う顔がセネリオの目前に迫って、焦った。「フォガートはね、チキのしたいこと全部させてくれるの。あれだめ、これだめ、って全然いわない。チキが失敗しちゃっても、男の子は守るものがあるときが一番かがやく、って馬に乗ったまま」
 きゃーと言わんばかりに、くねくねとみじろぐ。ガクッと後ろのめりになったセネリオの肩をたたき、我慢して、とルフレが囁く。
「フォガートはああ見えて中身は真性王子さまだもんね。ペースを考えてくれるし、押しつけてこないし。紋章士としては確かにやりやすい」
「他の王子が酷すぎるのでしょう」セネリオは辛辣にいった。
「でもね、エンゲージだけは、ダメだっていうの」ポツリ、とチキが続ける。「エンゲージしないと負けちゃいそうなときも、チキのためだよって。どうして? って聞いたんだけど。昨日、バッタリあったときに落ち込んでて……竜になったチキの背中に乗せてあげたくなったの!」
「ああ、それでエンゲージして、浮遊岩礁まで」
「……違うの。お空をずっと飛んでたんだけど、チキが頭の中で、チキの力見せたい! って思っちゃって」
「――まさか体を乗っ取ったのですか?」
 セネリオが空気を震わせた音に、チキはビクリと身をすくませた。「そんなつもりじゃなかったの。エンゲージも一回だけだよ、って言われてたし、明日ドラゴンシューターで一緒に遊ぼう、って言うんだけど、見せたいのはチキの力だったの。それで……喧嘩しちゃって」
 紋章士と一体化しているとき、能力も癖もすべてが重なってしまう。セネリオの感覚では頭の少し後ろに自分がいるような感覚で、エンゲージしているときは人間の痛みや焦りも共有しやすい。夜空の上で巨体をたなびかせていては、足がすくんでしまいそうになるのでは――。
「あ」
  セネリオが事の真相にようやく気づいて、ルフレが笑った。「そういうことだね」
 ヴァンドレはピンと来ていないようだ。黙ってて、と言われたチキも、もじもじとしている。仕方なくセネリオはこっそりつぶやいた。
「高所恐怖症。では」
「! フォガート殿がですか?」
「しっ、ヴァンドレ。声が大きい」
「……チキ、何も知らない」
 エンゲージすることを頑なに拒んだフォガートが、平素の冷静さを失って空を飛びつつ、それをチキ自身には言えなかった。充分ありそうなことだが、フォガートに苦手なものがあるイメージが結びつかない。なんでも笑いながら楽しみながら、夜の大冒険に繰り出すほうが似合っている。
「――チキ、フォガートともう一度話し合ってください」セネリオはようやく自分の番だぞ、と頭を切り換え、深く息を吸った。「あなたがいますべきことは、泣くことでもすがることでもない。これまで我が儘につき合ってくれて、本当にありがとうと伝えた上で、フォガートの背中を押すことです」
「チキ、お別れしたくない……!」ぽろぽろ、ととまっていた涙がこぼれる。「お別れしたくないよぉ。エンゲージなしのままでいいから、一緒にいたい……」
「別れるかどうかは、あなたとフォガートが決めることです。その気持ちそのままを、まず伝えたらどうですか」ルフレがやっていたように見よう見まねでポンポンと頭を叩くと、氷のように冷静な紋章士の行いにびっくりして、チキは小さくなった。「ちょうどヴァンドレの後ろにいることですし」
「フォガート!!」
 様子を伺っていた全身お祭り男が、「チキぃぃぃ……!」と泣きそうな顔で木の陰から出てこようとしない。スタルークそっくりなほどゲッソリと落ち込んでいる姿にセネリオとルフレが絶句していると、食堂での不始末で心あらずだったフォガートの様子をすでに知っていたヴァンドレが、大きく咳払いした。
 


 ふたりのことはお任せください、と部屋に引き上げたフォガートたちを見送って、二人は疲れきった顔を見合せた。
「……まきこんじゃったね」
「あなたのせいではありません。ただ、ちょっと木陰で休ませてくれませんか」
 精神力が削がれ、大岩を壊すより疲れた気がする。
「日が暮れるまでに終わればいいから」
 ゆっくりやろう、と。問題は重なるものだ。ひとつふたつと解決していくしかない。
 座りこんだままの自分に手を差しのべてくる。大丈夫です、といいかけたが素直に手をとった。距離が縮んでいる。
 木陰に移動しながら、やはりこの人は僕にはないものを持っている――とセネリオは思った。触ることのできないソラが、自分たちの上着を踏んづけて焦れたように走り回っている。木立にたたずみながら、ルフレがいった。
「竜、か」
 低い声に様子をうかがう。いや、とかぶりを振った。
「空を翔ぶ、って気持ちのいいことばかりだと思っていたよ。魔力で飛ぶのとはちがうんだろうな」
「――」
「チキやリュールが隣にいると、鱗が輝いて、ときどき自分のほうに跳んでくることない?」
「すぐ霧散してしまいますが。たしかに」
 必ずといっていいほど、等間隔で煌めきがはぜ散る。竜の血を引き継ぐセネリオには少し複雑な想いがするものであった。
「あなたの世界は、邪竜が滅ぼしたと――」
 いいさして、口をつぐむ。逆光で見えなかったルフレの表情が、暗く重く垂れ下がったように思えたから。
「……やめましょう。今日は口をききすぎている」
「話してもいいよ。いや、君には聞いてほしい気さえするんだ」背中を向けたルフレが、右手の甲を太陽にかざした。ちらりと覗く横顔は、いつもの穏やかな表情だ。「封印された邪竜には子供がいてね。自身を復活させる依代として、洗脳していくわけさ。村は焼かれ運河は干からび、まだ見ぬ未来のはずだったがその結末を知ることなく今を生きている」
「――竜族はどこも同じですね。狂暴で、粗悪で、人間の心など持たない」
 話を合わせたわけではなかった。しかしそれ以上口を聞いてはいけない、と自分自身のなにかが叫ぶ。セネリオはその声に逆らった。
「強くて邪悪な絶やさねばならぬ血の轍です。絶対に屈してはならない、触れてはならぬ汚らわしいもの」
 そう言われて育った。遠い記憶の見果てぬ夢だ。ここでは関係ない――と記憶を振り払い、ルフレをもう一度見る。
 紅い、と思った。一瞬だけだった。

「ルフレ」

 あ、ああ。と返事を返す。瞬きした目に、紋章士としての蒼い光がまとわりつく。見間違いだった、とセネリオは安堵した。「仕事を終わらせましょう。ソラがあなたの周りを絆石で埋める前に」
 え? ええっ、と慌てふためく姿をほっておく。大岩は先ほどよりは熱がましになって、黒々とし始めていた。くすぶる音に、セネリオは襟をゆるめた。魔道書と風を交互に出現させ、手に持って振り上げると同時、放つ。
 一帯が白く光った。爆音の前にルフレの背が。セネリオは想像以上の勢いで噴き上げる溶岩に「あ」と口を開けた。ルフレがばかあほまぬけと襟ぐりを引っ張る。


「それで結局」セリカはテラスのそばで浮きながら、遠くの惨状を見つめてふふっと笑った。「あの始末なのね?」
「僕もいったほうがいいかな」マルスは欄干に腰かけ、どうしようと唸った。脚を組んだまま動く気配はない。「クロムやシグルドでさえ、邪魔をするなと怒鳴られていたし。あんまり近づきたくないなあ」
 洞窟の前で真っ赤に上がる黒煙のそばでは、左右離れたところで上半身半裸のセネリオとルフレが、歯をくいしばっている。思ったよりも数段大きな熱の袋を抱え込んでいた大岩は、空中に浮いているが小さくなったようには見えない。
「あら。あなたはわりと役にたつんじゃないかしら?」と指を当てる彼女こそ、魔法の扱いは得意なのだが。「チキってすごいのねぇ。ベレトが褒めてたわ。岩礁を破壊するのは自分にもできるけど、お饅頭みたいに溶岩を内包する芸当は真似できない、って」
 その万年無表情鉄壁教師は、下で悠々とこぼれ落ちる溶岩と飛び散る石と焔のすべてから周囲をドームのように守っている。その顔は涼しげだったので、交代するとしても一時間後でいいか。とマルスは悠長に微笑んだ。阿鼻叫喚は舞台上ではなく、遠くから見つめるに限る。

「適材適所かもね。昼寝しようかな」
「私はお紅茶いただいてくるわ。薫りだけでも贅沢気分だし!」


 

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