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2024/05/02 

 澄んだ空気を吸い込むと、花の薫りがした。ああ、これだけはわかる――石畳の上を浮きながら体を反転させると、青空より前に陰った蒼。ぎょっとした。
「ん、セネリオ。一人かい?」
「――そんなわけないでしょう。この距離で」
 要塞以外で腕輪が遠すぎると強制的に戻ることになり、力も発動できない。わかっていて人の悪い綺麗な顔で、マルスは己に聞くのだ。互いの指輪をはめている二人は姿が見えない。ボネとジェーデは戦闘中以外は完全に自由にさせてくれるので、いつも誰かと少し離れていたいセネリオにはありがたかった。
「こんなところで珍しいな。いい天気だね」整った端正なその顔が、苦手だった。それでも逃げるように背中を向けるのは信条に反する。
 マルスは地面にひとつ足をついて歩き出した。肉体のない今の自分たちにとっては浮くことのほうが楽であり、爪先まで出現するのは精神力を使う。それでも気持ちはわからなくもない。セネリオはあっさり自分に気を許して、背中を預けた英雄王の一部を見た。
「あなたは」セネリオの声はいつも通り静かだった。「神竜リュールの元にいつもあると思っていた」
「相変わらず君は君のままだね」マルスは外向きの顔も忘れて、素で吹き出してしまった。その様子をセネリオが呆然と見ている。ああ、そうか――とマルスは咳払いで誤魔化した。紋章士たちの前では、どこか取り繕った自分でいるからだ。特に腕輪の面々はつき合いも浅く、互いに異世界の別世界線という閉じ込められた空間からお互いを知ったため、微妙にズレを感じることがある。
 向こう世界の自分は、目覚めているリュールと千年、恐ろしく長い時間を生きたはずだ。こちらのセネリオが本来どうであったか、知るすべはもはやない。それが必要であると判断されたから存在したし、必要でないと判断されれば泡のように消えてしまう程度の存在である。紋章士について、マルス自身はそう考えていた。
「よかった。変わりないようで――ラファールといったっけ。彼のような呼び方をするね」
 その言葉でセネリオも、マルスは囚われていた世界の中で、存在するのに離脱していた時間がもっとも長い存在であることをようやく理解した。不思議と彼だけは、その存在が傍らにいなくとも、身近にいると実感できる唯一の存在だったのも事実だ。皆一様に相談して決めたわけではないが、マルスを全体を束ねる長なのだと認識している。
 生まれついて王の素質を備えし人間とは、彼のような者をいうのだろう。セネリオがマルスを避ける理由もそこにあった。自分が仕えたいと願う強い意思さえ無理やり奪い取られるほどに、柔和な声と顔に引き寄せられ、離れがたくしてしまう。その理由をまだ知らない。知らないままで、いい。
「あんな目つきの悪い死に損ないと一緒にしないでください」険のある言い方にマルスが驚くと、さすがに言い過ぎたかと目をそらした。「すみませんでした。嫌な言い方をしたのは」
「彼と、何かあった?」 
「……関係ありません」
 一度こうなると、誰が聞き出そうとあやそうと、貝のように硬くなって沈んでいくのがセネリオだった。マルスは許可も求めずにセネリオの額に手を翳す。ゆっくりとした動作だったので振りほどこうと思えば振りほどけたが、セネリオはなぜかその場を動けなかった。
「ルフレは関係ない。よね?」
 自分よりほんのわずかに目線の高いセネリオの肩が、小刻みに震えた。わかりやすく身を守るように握ろうとする手首をぱしっと取る。
「ラファールとルフレ」抵抗しようとした全身が総毛立つほど、暗く低い声がセネリオの耳朶を焼いた。邪竜に操られているとき言葉を操れるとしたら、こんな声を出したのかもしれない。「君にそんな顔をさせるくらいのことを二人がしたのなら。僕は彼らにくれてやる慈悲はない――」
 なぜマルスが英雄王と呼ばれる人であったのか、その名をマルス自身で否定するほどのことがどれだけ幼き日から繰り返されてきたのか、引かれる手を握り返して理解した。
「違います」射すくめられると、蒼い相貌が朱よりも恐ろしいことを実感した。「本当に違います……ルフレはともかく、ラファールは本当に関係がありません」
 かろうじて喉をならさず言い切った。セネリオは怯えているというより、知らない感情に戸惑っていた。――こういう状態のマルスを自分は見たことがあるのか? 混乱から回復するより、ギラギラと見ようによっては恐ろしい蒼い瞳に、感情が戻っていることを確信する。躊躇いがちにお互いの手を離すと、触れた場所の熱さでおかしくなりそうだった。彼もセネリオに触れていた手のひらを見つめ、強く握りしめる。どちらも顔は青ざめている。紋章の焔がそういう風に見せているだけだ、と考え直した。
 しかし胸は重苦しく、吐き気が伴うほどだった。
 感情がないマルス。心当たりはなかった。操られているときでさえ、その目に憐れみや哀しみを映していたような情の深い彼が――自分のような陰気な者さえ邪険に扱わず、危害を加えたかもしれない仲間を、断罪しかねない勢いで怒った男が――。
 セネリオの逡巡を知ってか知らずか、マルスはやっと口を開いた。「それなら、よかったよ。ルフレのことは君たちの問題だけど、ラファールを受け入れるか否かの選択権は、リュールにしかないからね……」
 その言い方に、世界ひとつをまるごと滅ぼした邪竜について、マルスが闇を抱えていることに気づいてしまう。やはりこの人は、光の側だ――自分とは違うのだ。自分やルフレとは、生まれ持った魂の宿命のようなものが。
 マルスも自分の言い方に本心が漏れ出たことを気づいたようで、眉間をしかめて嫌そうに目を閉じた。高潔な精神――そんな優しく可愛いものではない汚点のような感情――違いは、己はそれを自分自身に赦してしまえば簡単に可愛がれることだった。マルスには、きっとそれが醜いもののようにうつっているはずだ。

 ――恋しい。

 まったく逆の感情がわき起こり、セネリオはマルスに対する態度を緩和させた。彼にはフィレネの花畑が似合う。マルスの魂であれば、武芸の国ブロディアで生まれても花と微笑みを咲かせるに違いない。
 暗い憎しみは自分が引き受ければいい。
「……君がそういう顔をしているときは」マルスがせつなげに面を歪めた。「近づかないようにしていたんだ。どうにも惹かれるものがある」
「意味がわかりません」
「僕もだよ。思い出すころには、すべてが終わっている気がするから言っておこうかと思ってね。拒絶しようが蹴り棄てようが、何度も何度も狂おしく抱いてくるセネリオの幻影を視ることがあった」
「――僕が? あなたを? そうされたいんですか?」
 どうだろうね、と口元を抑え、いぶかしむ。首筋だけが上気しているように見えた。どちらかが乞えば応じるかもしれないほどには、いまの自分たちは危ういと感じる。一刻もはやく離れて、吐き出せない想いを打ち明けた事実を抹消すべきだ。理性はそう叫んでいた。体は違うほうを向いてしまった。
 何か間違いが起こったのだ。どこかの世界の、自分たちではない自分たちの間で。たとえば――互いが本当に望んでいる相手と、永久的に逢えないくらいの罰を課せられたなど。それくらいの重さで。
 セネリオも手のひらを見つめ、迷いながら提案した。「僕はこの先、この闘いが何万年続こうとあなたの体に二度と触れません。そのかわり」
 マルスは驚きを持ってその提案を受け入れた。


 影響のない時間、影響のない場所を探すことに頭を悩ませていると、「試練の離れはどうだろう」とマルスがいった。あそこは本当に、夜間は誰も来ないし――と腕を組みつつ顎に手をかける。穴空きの長い手袋と袖の間をセネリオの視線が注がれていることに気づいて、なんだい、と怒ったように声を震わせる。それがぞくぞくするほど心地よい響きで、セネリオは率直にいって――と繋いだ。
「この」半袖の間に指先を入れれば、わかりやすいほど跳ねた体がセネリオの真正面で背をそらした。明らかに焦っている。「ここらへんが好ましいな、と。考えた日もありました」
「いつのことだい」
「神竜リュールと公然で向かい合っていた日ですね。もうかなり昔のようにも感じますが」
 マルスはリュールとそれくらい離れていた。そういえば、あの日が最初ではなかったかと要らぬことを思い出しそうになる。ルフレとも長いつき合いになった。愉しい時間もいつかは飽きるだろう。おそらくルフレが。彼を望む人は多い。
 自分から指定した場所と時間であっても、こちらに向けてくるいたわりの眼差しが迷いの色をしている。「ここであなたを犯しましょう」とわざとあからさまに言ったが、そうだね、となぜか冷静にマルスは返した。自分でもわからないほど、そうしておくべきだと思う。
 紋章士の性的欲求は、肉を借りた体のそれとちがって、もっと即物的で機械的な作用によるものな気がした。なぜ。とふたりとも同時に思う。なぜ自分たちなのだろう? なぜ、彼であるのだろう――。視線が合っても、普段のどこか剣呑とした空気とはちがう。
 記憶の底から何か探れないものかと、セネリオはあれほど嫌ったマルスの顔を見ていた。どちらも女性的な、中性的な姿形である。マルスにはまだ拭いされなかった少年期の幼さが残っており、たいして自分は見た目より歳上であったことを思い出す。
「僕の印は」セネリオは額を触った。「竜鱗族と呼ばれる血が浮き出たことによるものです」
「……」
「エレオス大陸はもとより、ソラネル内でもアイクしか知りません。紋章士となった時点でそれなりの年だったのですが、成長はかなり早く止まりました」
 知っておいてください、と。思えば自分のことを一度も話したことがない相手に、一番知られたくない話をしている。
「僕は」マルスがまっすぐにセネリオを見た。「僕という人間は、君が思っているほど高潔でもないし、君が既に知っていたほど純粋でもない」
「あ……」
「名前をいうことは赦されないけど、ほかの何を犠牲にしても守りたかったもの、愛している相手がいることも君はわかっているだろう」
「――」
「何もあげられるものがないんだ。ただのマルスというだけで」
 強欲なんですね、と少し微笑んだ。
「君がそんな風に笑うところを、昔どこかで――いつだったか思い出せないほどの」
 奪ったり駆け引きをしたりが必要ないほどの記憶。掴んだと思えば互いの間で常に漂う蒼い光陰のごとく脆い、はかなげな現象。理屈と建前が支配している彼らの間で、何があったのか思い出すことが叶わない。
 少し仲たがいしただけで手離そうとしている相手と比べてしまい、セネリオは自嘲する。マルスはマルスで、浅ましくもいやしい自分の欲を抑えることなく、束ねた長い髪に触れた。思えば遠い故郷に置いてきた愛する者も、まっすぐな髪だった。
 子供が互いの体を確認するように、お互いやさしく触れた。陸言はなかった。神聖な儀式のようにゆっくり時間が過ぎた。朝焼けが射し込み、終わるころには離れがたくなっていた。何度か服を着せたが途中で望んで脱がせた。何度も、何度も。そういった相手の言葉を思い出して、「僕はあなたを夢のように抱いていましたか」と聞けば、いいやと膝立ちで唇だけ合わせたまま、過ぎ去りつつある焦熱が昇華していくのを肌身で感じていた。
「夢の中の君は必死だったよ。僕が頸を絞めるから」
「――」
「僕のほうでは二度と御免だからと叫ぶのに、君は痛めつけるたびに御礼をいって離してくれない。やめてくれ、って頼んでも、指輪を壊してくれと乞うても………」
「そこまでで結構です。実現しない悪夢でよかったですね。存在もしていなかったことを祈ります」
「よがってたから、救いようがないな」マルスの裸体がは立ち上がり終わると同時に、着衣のすべてが元通りになる。「ああ、気持ちのいい朝だね。リュールを起こして来るよ」
「――何万年経ってもこれきりだって約束をしたのに、愛の言葉もかけてくださらないんですか」
 セネリオも片膝をつくと、音をたてて地面から粒子が立ち上ぼり、服が形成された。「なんだ。最初からこうすればよかったんだ」
「……毎回どうしてたの?」
「知らなくていいことです。ここを一歩出たら、ソラネルでもっとも愛想のいいただのマルスと、ソラネル中で一番愛想のないセネリオなんですから」
「ソラネル中で、一番さびしがりやのルフレに抱きつくのがいいかもね」引きとめる隙も見せず、マルスが扉を開ける。「誰もいないよ。さあ」
 浮遊しかけた腕に長い指が絡んで、振り返ると別人のように男らしい動きで、キスをしてくる。これが本当にさいご、と唇を合わせたまま、普段は眩しいほどの瞳が閉じたままいった。

 ああ、本当に――救いようがない悪夢が晴れた朝ほど、気持ちがすっきりとしていた。それから何度も目を合わせる機会はあったし、会議中に起きた口喧嘩の仲直りでふたりきりになることはあったが、その世界でのセネリオとマルスはそれきりだった。
 対称的に、ルフレとは何事もなかったように元の鞘にもどった。完全に別れたと見なしてよい月日がけっこう経っていたため、何も知らない周囲はさすがマルスだとなぜか喝采しているのを見かけた。腑に落ちないさすらいの軍師に理由を聞かれたが、人目を忍んでのくちづけひとつでそれを封じた。




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