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2024/05/01 |
窓の外を眺めていると、猫がこちらを向いて座っているのに気づいた。爽涼とした風が一気に吹き込んで、シュルクの髪の流れを追うように部屋へと侵入してしまう。困ったな、と吹き抜けから階下を覗けば、カナグリイモの皮を剥きながら猫の声に気づいたレックスが眉を潜めていた。 「あー……ごめん。空気を入れ換えようとしたんだけど」 「気にするな。こっちから追い出す」 そうだね、と頷きかけて「あ」と思い出す。ちょうどいいお客さんじゃないか。「レックス! 扉開けるの待ってくれ」 カギロイに頼まれていたんだっけ、宿舎のネズミ退治。捕まえるのに最適な箱か鞄を探していると、レックスが猫を抱いて「これがどうかしたか」とシュルクに渡してくる。 「え、もうなつかせたのか……さすが君、早いな」 褒められるたび、へっへーん! と鼻の下を拭いてた坊主は、嫌そうに顎を掻いているむさ苦しいおじさんと化していた。「そんな、人の手癖が悪いみたいに!」とぶつぶつ階段を降りていく。可愛いアップリケのついたおよそ似つかわしくないエプロンと相まって、奇妙な感覚だった。「歳月って……」と溜め息を吐けば、「聞こえてるぞ! お互い様だろ!」とがなる声が、ダンバン邸の壁を揺らした。 「唐突な珍客も社会のお役に立つときが来ましたねぇ」と猫にきゃっきゃしているカギロイをよそに、「粘着テープのほうが早いですよ」とニコルに諭される。途端にムッとした乙女心を読み取り、女性の扱いに長けてるとは言いづらい我が子の遺伝子を思った。 「そんなのかわいそうじゃない。ねずみだって生きてるのよ!」 「猫に食い散らかされてはらわた引きずり出されるのと、粘着テープならテープの生存確率のほうが高いだろ! ね、シュルクさんもそう思いますよねっ」 「猫から逃げるチャンスを与えるのが慈悲ってもんでしょうが!」 子供じみた喧嘩の仲裁は骨が折れるので、間に挟まれてかなりやりづらい。猫は退散させたほうがよろしいかしらと問題の倉庫を見ていると、チュッという鳴き声に慈悲がどうとか動物愛護的にとか言ってたふたりが、「ひゃああああ! 出たあああああ!」と両指を絡めて抱き合いながら、一目散に逃げる。あ……と思ったがネズミの行方を追いかけた猫の捕獲が先だ。スナイパーは早かった。口に咥えた戦利品はふたりに見せないように、と適当な布に包んで外で待っていた倉庫係に処分を頼む。 「ええと、疫病持ちの可能性もあるから、納屋裏の焼却炉で……」 「わかりました。あと備品の整理が手透きになりましたので、来週予定の書類を揃え次第お持ちしますね」 「助かるよ。ネズミは一匹と聞いているけど、ひょっとしたら時期的に子作りが始まっているかもしれない。ニコルが罠を仕掛けてくれるそうだから、後で聞いておいてくれ」 「――シュルク!」 快活な声のほうに体を向けると、マシューが大きな声でわっ! と脅かしてくる。一瞬何が起きたかわからずキョトンとしてしまうが、「あ、わりぃ。真面目そうに仕事してるから、つい……って、猫じゃねぇか!」と明るい声に思わず笑みがこぼれる。照れ隠しに頭をかきかきしたのも見逃さず、シュルクは胸のうちに抱えた暖かなものをマシューに差し出した。 「たった今ネズミ捕りクエストに健闘した英雄の末裔だよ。褒めてやってくれ」 「へへへ。シュルクもそんな冗談いうんだな。それにしても、かっわいいなーお前」シュルクから猫を受け取ったマシューが、樽に腰かけて優しい手つきで猫を撫でさする。顎をごろごろと鳴らし始めた猫に、シュルクは破顔した。「英雄の末裔……いい響きだな。見たことないやつだし。母ちゃんはどこだ?」 「再建し始めた家の中に入ってきてしまってね。野良かもしれない」 「コロニーで飼おうぜ」 「迷子猫のチラシを配った後でなら餌付けしてもいいよ。探している人がいるかもしれないし」 「そうだな」マシューは片手で抱えたままシュルクをまっすぐ見た。この軽快な青年がコロニー9に来てくれてから、どれだけ小さな出来事でも、何か希望めいた予感を感じるようになっていた。明るくまばゆい光は若さだけではなく、身の内側から発する真の強さという陽光な気がしてくる。「シュルク、名前決めてくれよ」 「名前……」 細めた目の先で、猫ではなくマシューの髪の毛を追ってしまう。シュルクは首をかしげた。尻尾みたいなあの髪に触れたい、と。 いつからだろう。特別に深い意味はないのだ。一挙一動から目が話せなくなる瞬間がある。マシューの泣いている姿を見たときからか。妹とつらい別れ方をして、また出会って、奪われて。 自分と重ねているのかもしれないな、と目をそらすと、マシューがシュルクの顔を覗きこんだ。胸の鼓動が早まっていく。特別に見目麗しいわけでもない、普通の好青年だ。しかしなぜか心臓によくない。精悍な顔立ちがちょっと若い頃のレックスに似てなくも――いや、結局若さなのか? 若さがすべてなのか!? と混乱した。 「ん? どうしたシュルク。大丈夫か――シュルク!」 「いや、なんでも……」 「騒がしいなマシュー。往来の向こうに居ても君の声はわかる」 「アル……!」シュルクが銀色の猫の先で、銀髪の少女を見つけ、言いさした口を閉じるより早く、マシューが笑った。 「アルかあ! いい名前もらったな!」とマシューがエイの足元をくるくると走る猫を持ち上げた。エイは持ち上げるとき一瞬猫と目が合い、シュルクに向き直ったが、シュルクはあらぬ方向を向いたまま口元を抑えている。表情はうかがい知れなかったが、耳元が真っ赤だった。しかし言うべきことは忘れない。 「おい、マシュー! まだ決まってない。飼うの決まってないからね!」 「わかってるって。よっしゃ。レックスに残飯もらいにいこうぜ。ついてこい」 ふう……と平静を装ってエイのほうをちらりと見る。エイはなぜかシュルクを凝視したままだったが、走り去るマシューと見比べて口を開いた。 「うちの猫、可愛いだろう?」 「えっ!? …………あ、うん。そうだね。すっごく可愛いよ」 「無自覚なんだから末恐ろしい。飼い主は決まってないから、よければ相談に乗ろう」 「どうしようかな。正直かなり癒される」 シュルクは片手で頭を抱えた。自分とレックスが失いかけているものすべてが詰まっている感じだ、とシュルクは落ち込んだ。 ――ある本についてのすべて。 |