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2014/07/04 




 善次郎は蒲団の脇に正座して、赤い点に火蓋を伏せた。暗闇の中では和助の背中しか見えない。

「旦さん」

 無駄なこととは知りつつ、声をかけずにはおれなかった。「聴いておくんなはれ。旦さん」

 返事の代わりに規則正しい寝息が室内を漂う。善次郎は眼を閉じて蒲団の端に手を添えた。

「わては初めて寒天場で旦さんとおうたとき、すかしたやっちゃなあ思てましてん」

 善次郎は口火を切った。返事はなかった。寝息の合間に、腹など小さく鳴ったりもした。

 最近、食が細なりはったもんなあと善次郎は思った。そして続けた。

「寒天場から卸して貰う品物がなかったら、潰れるゆうのにな。ええ立派な着物着よってからに。汗水流して働きもせんと、浄瑠璃嗜んでご馳走ばっか食うとる、二代目以降の若旦那やと決めつけてましたからな。なんでそないな処に、いまさら丁稚奉公せなならんのやて、しんどうてしんどうて」

 奥座敷の外に通じる襖を開け、風を通した。和室に漂っていた煙がふうっと吸い込まれていくのを、善次郎は見ていた。

「店ついて食事出て、開口一番、『わては腹一杯やから食えまへん。御上がり』云いはったん覚えてまっか。あの頃はまだご寮さんも生きてはって、わて、あんな別ッ嬪さん見たことなかったもんで、『いりまへん。伏見戻してくれやっしゃ』ゆうて外出てしもて」

 虫の声も聴こえぬ静寂のなかで、善次郎の少し掠れた濁声が響いた。

「何べん数勘定したかわからんけど、橋の下で石拾うて大川に投げとるうちに、もう――昔の旦さんや嬢はんのことが頭から離れんようになってもうて」
「ぅ……ん?」

 背中を向けたままの和助の顔を膝立ちで覗きこみたい欲求に駆られたが、息の感覚は規則正しいままだった。

 それで其のまま続けた。

「ほんの、ほんの少しやさかい、水飲んで、苦しいのはそこだけで。これまでのしんどいこと、ぜぇんぶ消してしまえるんやったら。わて、もう独りで生きるのは厭やから。最初ッから独りやったら、喪うモンなんてありゃしまへんのやから」

 握った拳に汗が滲んだ。

「水に脚つけて、半分凍ってましたけど。死んでしもた、嬢さんや、旦さんはこんな痛みやなかったはずやて。耐えて、堪えて。前だけ向いて。最期の瞬間に天神さん見て、もう終わりにしたら楽なんだっせ善次郎、て」

 丸めた腰に傷みが走った。

「帰るとこなんぞあれへんけども、わてを産んでくれたお母はんが乳飲み子抱えて泣いて。御免やで、堪忍しとくれやっしゃ。生きて誰かのために奉公して、空の下でいつか誰かと笑うて暮らすんでっせて」

 蒲団の端を震える手で押さえた。

「お父はんの顔はもう覚えとらんけども。強く握ったわての手を誰ぞ知らん大人に差し出して。一言も言い寄らんで去っていきはって。草鞋も脱ぎ捨てて追いすがろうとしたら、嬢さんがアカン、云うてわての袖を引っ張るんで」

 寝息の音は止んでいた。

「わて、もう腹もすいてクタクタやさかい。長旅で脚も痺れとるし、はじめっから骨と皮で出来てたような気のする躯の節々が痛いし」

 静寂だけとなっていた。

「離してくんなはれ。お父はん行ってしまいよる。わてを棄てて二度と帰ってはきよらん。此処で最後なんやから、後生やから離してくんなはれと頼むのに」

 囁き声に重なった。

「離さへん。離さへん。云うて嬢さんが、軋むわての躯を細腕で引き留めはるんで。わて、とうとう根負けしてしもて。振り返って嬢さんのこと見て。ほんまに優しい色した目ぇに、わてのこと映して泣きはるんで」

 衣擦れの音を耳にした。

「笑って見せてくれはったら、頑張れるかもしれへんな、思て。店の前で一度きり振り返って、お父はんの――顔も忘れてしもた。堪忍でっせ――大きな躯の形だけが遠くに見えて。振り返らへんけど、拳振り上げて。天神さんの名前呼んで。わての名前も呼んで。膝叩いて道端に転がって。一度も振り返らへんと、また歩き出しはったのを」

 下を向いて顔を上げなかった。


「――いつまでも見とりましたんや」


 上げられなかった。


「川の流れは急やから」

 眼をきつく瞑って開かなかった。

「半分も行ったら手足も凍って沈んで仕舞えるはずやて。足の運びも数えかぞえ。真っ暗けの空に星がぎょうさん。これも数えかぞえ」

 起き上がろうとする気配に祈った。

「待っといておくれやっしゃ、て。いま居て参じますんでな、て。風の便りで乳飲み子は死んだ。兄弟も消息など掴めん。お父はんお母はんは首括らはったけど。こんなにしんどい思い抱えて、生きていかなアカンくらいやったら――早よう楽になって、どこぞの神さんに会えなすったほうが、よかったかもしらんなあ、て。わて、そう思いましたんや」

 蒲団の端を強く強く押さえた。

「首まであっぷあっぷしとる。もう少しや。あと一歩で終わるんや、と気を抜いたとき。裸足になった足の裏で石っころ踏み外してしもて」

 諦めて寝返りをうつのがわかった。

「十五の歳になるっちゅうのに、よう泳がんかったさかい。呆気ないほど簡単に水の中に嵌まって。これでようやくわても楽になれるんや、とその時は思たんでっせ。でも苦しゅうて苦しゅうて。水が針のようで、痛うて。痛うて」

 痺れた全身に冷たい風が吹き込んだ。

「口から吐いた息を最後に、これで死ねる。ようやった。ほんまわてはよう辛抱したんやて、悲しそうな顔して泣いてはる嬢さんの幻を見て。堪忍しとくれやす。助けられんで、一緒に苦しんであげられんで、堪忍しとくれやす、云いましたんや」

 握り拳に指先が触れた。

「お母はんは川の底で、よう頑張りましたなあ、て微笑んどる気がして。お父はんは矢ッ張り背中向けとるんやけど。今度は追いついて、いっぺんでええ。いっぺんでええさかい。殴りとばして云うこと云ったんねん。手を伸ばしたんだす」

 暖かな指に包まれた。

「袖をチョイ、チョイ、と何度か引く気がして、また嬢さんかと振り払うんやけど。水の中でっから、どないもなりまへんのや。わての袖と腕を掴んで、頭抱えて抱き込んで。抵抗する手を抑えつけられて、誰やねん、なんとしても顔見たらな、て。物凄ッく恐い顔しはった仁王さんが見えて」

 善次郎、と声がした。

「水面に上がったら、腹一杯に膨れとった水が逆流して余計苦しなって。死なれんかった、死なれんかった――思て、両手を出すんやけど、仁王さん以外にもぎょうさん、川辺に集まっとって」

 強く握られ両手の指を開いた。

「みぃんな油提灯ぶら下げて。こんな時期に祭りか、景気ええ噺やわ、思うて地面に引き上げられましたんやな。そっからあんまり記憶はあらへんのやけど」

 ――善次郎。

「己も水飲んで、死にそうな息しとんのに。止めるヤツ皆吹っ飛ばして、真っ直ぐわての処に来て、殴りはったもんで」

 蒲団を剥ぐ勢いに膝を崩した。

「ど阿呆、この阿呆んだら。死んでどないすんねん、死んだら仕舞いやねんで。云うてどつきまくって。周りが引き剥がそうとしても、何べんもビンタしよるんで。さすがにわても痛いし、冷たいし、寒いし、恐いしで。すんまへん、堪忍しとくれやっしゃ、もう無理なんや、堪忍して。泣きじゃくって」

 月明かりを頼りに霞む眼で、和助の顔を見ようとしたが――。

「膝ついて放心しとる姿をよう見たら、仁王さんどころやない。水も滴って、火の光に顔を照らされて、一緒ンなって泣きじゃくっとんのに。生きるんや。ええな、生きるんやで、善次郎。云うて」

 着物の襟繰りを掴まれ、引き摺られるようにお互いを手繰り寄せ。涙で濡れた唇を幾度も合わせながら、善次郎は応えた。


「――ええ男やった。ホンマに……ッ、旦さん。ええ男やった!」


 そうやって今みたいに、抱きしめてくれはったんだす。

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