管理人サイト総合まとめ

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2018/10/07 

 アパートの二階には昨年やってきた管理人さんが住んでいる。古谷さんといって、フルタニさんだかフルヤさんだか、コヤさんだかコタニさんだか。そのどれかには違いないのだが、一度自己紹介されてから以後、読み方を忘れてしまった。表札には『古谷』と書いてあるきりだ。いまさら「お名前、なんでしたっけ?」とは聞けやしまい。
「山田さん!」
 自営業の朝は四時五時が通常だが、俺は店も近いので六時だ。いざとなればあちらでも寝られるし。
「おはようございます。お早いですね」
「おはよう。少し時間あります?」
 もちろん作らない限り勤め人の時間などありはしないのだが。「何かありましたか」
「何かも何も」管理人さんは突き刺さりそうな鷲鼻を掻いた。「何もないけどね、何も……猫がね!」
「ーー猫?」
「三階のおばあさんが、裏の仔猫にエサやるんですよ。冬の間は大目に見てたんですけど、ゴミ捨て場は荒らすし殖えるし鳴くしで。注意したら私が飼うって聞かないんですよ。仔猫は引き取り手を探すって」
「ああ」誰のことか予想はついた。「それは……大変ですね」
「でしょう? 管理会社としても野放しってわけにはいかなくってね。可愛いのはわかりますよ。こっそり飼ってる人が居たらしいけど、うちとしては困るんですね。ノミとかダニとか鳴き声とか」
「ははは」人間の出す騒音も大概だと俺は思った。ウクレレがこちらの住まいで練習できないのはそういうわけだ。「でも、加藤さんはこちらに三十年住んでますよね。アパートができたときから。いままで迷惑かけられるようなこともなかったし、猫の一匹くらい……」俺は猫ひとつで優しげになったアキちゃんを思い出して言った。
「住民の苦情があった、という体にしたいんですけどね」
 きた、と俺は身構えた。論点をそらすか議論に持ち込むか二択である。
「その場合、猫はどうなりますかね」
「離れることがなければ、保健所に連絡です」管理人さんは無表情にいった。「仕方ないんですよ。ルールでしょう?」
 ルールですね、とうなずくことはできなかった。俺も冬の間に一度だけ、猫の親子を見かけたのだ。たまたま手元に何も持っていなかったので、餌をやることはしなかった。翌朝サバ缶を片手に覗いたが、もう猫はいなかった。昼間は違うところで寝ていたのだろう。
「また今度、時間のあるときに……」
 俺はまだ話したそうにしている古谷さんを置いて、逃げるようにその場を後にした。

 公園のベンチで会う野良猫はいつも行儀がいい。まるまると太っているのは、やはり誰かが餌をやっているからだろう。その日は少し早めに店をしめたので、俺は猫を見つけて公園に立ち寄った。貰ったちくわの残りを俺に差し出そうとするので、傍らに座ると猫は誘うように尻尾を上下させた。
「あっ、深見さん!」
 近ごろ外でバッタリ会う機会の増えた深見さんが、ハーレーで横切った。何か催事でもあったのだろうか。いやに慌ててたなあ、と膝の上の猫を撫でていると、五分ほどして深見さんは戻ってきた。バイクを入り口付近に置いて、俺のところに来る。
「さっきはどうも」
「すみません。声かけちゃって……よく聴こえましたね」
「耳はいいんです」
「バイク、大丈夫ですか」
「すぐ行きますので」
 深見さんは猫が好きである。頼まれていたカグヤリュウを持っていくと猫の大群に囲まれており、「手元に何もないから」と猫を殺しかねない形相でお経を聞かせ始めたので驚いたこともあった。「いや、おたく神社ですよね……」と言うと「こまけぇことはいいんだよ。似たようなもんですよ」とまたブツブツ。猫は猫で始めこそ大合唱のおねだりであったが、そのうちお経が眠気を誘うのか、あちこちでゴロニャン子。「膝を暖めてくれんのかえ。お駄賃をやらにゃなりませんわなあ……」といずこかへ消えると、缶詰を思い出したようで手ずから与えていた。俺はそれを思い出して聞いた。
「またお経ですか」
「たまには祝詞でもあげようかしら」
 かしこみかしこみ、のほうは仕事上のリップサービスなので、あまり価値がないという。 俺が思いつく限りの題目を唱えると、猫は迷惑そうにミャーと欠伸をしてどこかにいった。
 深見さんに猫も居場所のない現状を話すと、「私は坊さんではありませんので。悩みごとのお役に立てませんよ」と目をすがめた。
「そう言わないで。俺、どうしたらいいですかね」
「人に聞くひとは駄目ですよ」
「猫。可愛いんですよ」
「可愛いだけでいいなら、私も見ようによっては可愛いですよ」
 冗談の通じなさそうな顔でよく言うなあ、と俺は笑った。「まあいいや。聞いてくれてありがとうございました」
「そのひと。年寄り?」
「……見えるんじゃないんですか」
「勘違いしてもらっちゃ困るから皆言わないの。見えるとか見えないとかじゃないんですよ」
「あー、高齢です。僕よりは」
 深見さんは眉根をあげた。「だったら表向きいうことを聞いて、ハイハイとね。年寄りというのは、それで満足する生き物だから。お経聞くみたいに聞き流して。猫の方では、あげたい気持ちになったら餌あげる。撫でたい気持ちになったら撫でる。難しく考えちゃいけませんよ。どっちも情があるんだから」
「情、ですか」
「それもなくなったら、こっちが動物ってことになっちゃう。猫、死にかけてます?」
「いや、冬じゃないし……」
「心配しなくてもね。子供や生き物は一人でも生きられますよ。一人にしちゃ駄目なのは年寄り。淋しいんですって」
 俺は普段はうるさい古谷さんの様子を思い出した。朝から晩まで彼はひとりだ。隣のアパートのゴミ整理までしては嫌がられている。
「案外ね、餌をやってるのだってーー本当は」
「え」
「いや知らないけど。あなたはうっとうしいだろうけどさ。他人の一挙一動を気にしてるひとは、みんな淋しい人なんだ。たくさんのご縁に囲まれていても、心の底ではいつまでも、それに気づかず淋しいままの人だったりするんですよね」
 深見さんは曲がった腰をトントンと叩き、ゆっくりと立ち上がった。
「また花、よろしくね」
「あ、はい……」
 俺は深見さんを見送りながら、夕暮れの落ちるのをぼんやりと眺めて、猫にお経のひとつでも聴かせてやろうかと思った。

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