管理人サイト総合まとめ

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2018/10/02 

どこから書いたらよいのだろう。22歳になっていた。世間の評価では成人だろうが、まだまだ子供である。今もそうだよ。私は市外の大型ショッピングモールに勤めだした。早朝5時からクラシック音楽と、健康雑誌についてくるような自己啓発のCDが流れていた。一時間の休憩、上がりは夜中の11時、家に帰るのは一時だった。裏で社員も派遣もバイトも関係なく挨拶が行われる社風で、「ああここは伸びる」と思った。しかしマニュアル化の波が押し寄せており、案内の女性は私が服屋の売り子と見破るなり、嫌がらせの電話を店長に入れた。それ自体はそこまでの話だが、これを受けてのマニュアルがあり「伸びるが堕ちる時は一瞬かもしれぬ」と思った。ゴミ収集に巻き込まれ今年一人亡くなったのがあそこだと目にして、こういうことには数字だけではなく、中にいるものだけにわかる予兆のようなものがあると思った。

いつもそうだった。視たくないものを視ては魘され、時代の流れに逆らっても人に何かを伝えずにはおれぬ日があった。しかし口にして五分もすると「言ってええのやろか」と迷いに迷い、私もハッキリしたことは言えぬ。誰であろうとそうである。こと人の寿命や事故や自殺や天災に関しては、恐ろしくて哀しくて切なくて、表面を撫で上げては薄氷の上を躍り狂うような世の中に、腹が立ちもすれば自分の見やるものを人に変わってほしいと思う日さえあった。なんの役に立つんや。こういうことは誰にでも、本当に、本当に誰にでも感じるものがあるのだがーー自分を信じられず酷いペテン師だと思う日もある。誰か傷つけて高みから愉しんでる風にさえ捉えられると、その日は胸の痛みから「ちがう」と私の内面の幼子が云うのである。何も違わぬ。周りもそうである。いま一瞬にしかおれぬ。病気扱いされると生きづらいので、10歳頃には不思議な話はしなくなった。外国人の客が多かった。耳が聴こえぬ人と筆談した。

安いものなら千円、高いものでも一万円までの安価ブランドだったが、こういったものに価格が関係ないことはわかっていた。私は見た目がよくも悪くも普通であったので、普段はまったく着ないスカートをなるべく履くようにして、店の有線で流れる音楽に合わせて踊っていた。服のジャンルに合わない当時流行りだした編み上げタイツを履いてみたり、とにかく「やるな」と言われた真逆をやってみた。ブランドを買い上げた服飾社長はアルバイトにも自著を配るような人で、マニュアルと機械化と分業が当たり前の世界だったからだ。「余分な仕事をするな」と言われたのはあそこだけである。しかし毎日の売り上げ最大五万だった弱小店舗が躍進し、疲れきって挨拶もできぬ男性社員がPCを片手にスナイパーのように私を見張りにきたときには(アホやなあ……今すぐ黒いスーツを脱ぎ捨てて、猫背の男店長が来てるような真緑のカーディガン。或いは私がピシッと畳めという圧力から逃れ、適当に畳んでいる三年倉庫に置いても売れなさそうな五千円もするレインコートを彼が着たら、少なくとも今日の売上は伸びるのにィ……)と思った。しかし「手もとのそれください」と言われたので、「アッ……ハイ……」。ああ、あの統計にもなんらか役に立つ日がくるのかもしれないと思い直した。ナマケモノのアサシオ君が服屋で多少の役には立っている時代だし。しかし私がやめて二年後、そのブランドはブランドごと無くなった。

えー、その後に入った百貨店の裏側は、落ち目と言われるのも仕方ないほど荒れていた。配属になった店舗の肌が切れそうな空気と圧力は言葉に言い表せない。ここではコサージュが最安値一万円であった。馬鹿げているがハイブランドにもハイブランドなりの世界観があり、その価格でも買いたいという客側の心理には何もケチをつけるものはない。ただ売ってる側の荒れた空気、粗野な態度は、他のどことも比べようがない。目立つロゴはないブランドだったが、本当の意味でお客のほうを向いてる人は僅かであった。中学時代に炊事場を借りていた店舗で皿を投げつけられたことがあるが、態度に出るだけマシやもしれぬ。指は頑として動かなくなった。ブランド信仰が最初からある人だけ残る仕組みになっていた。お給金の六割から八割で販売員が新作を買い取るからだ。この傾向は私が生まれた頃には始まっていたらしい。母親の時代には考えられなかったようで驚かれた。水商売に近い社風のところもあり、客が求めていないメールや葉書や電話をかけて客の個人情報をーーこの辺にしておこう。百貨店や水商売自体が悪いわけではない。人が集まりすぎたり集まらなくなった場所には理由があると知った。すべての場所とは言わない。同社の別ブランド、向かいの店舗はいいところであったので客足は安定していた。


祖母の話を整理しては書けない。介護病棟にもいろいろある。どこもかしこもそうである。家から30分歩き、午後の三時に桜の木の根もとで祖父と待ち合わせ、バスとモノレールを乗り継いで一時間。入ったときはなんて薄暗く寂しいところだと思ったが、これまでの病棟の明るい場所で、むかし看護婦だったという祖母の居場所の無さげな様子を思い出す。ここが始まりだ。ここで会話をやりなおそう。返事の返らぬ言葉をつぶやく日々が始まった。過ぎたことには決着はつかず、あるのはただコチラをじっと見る祖母の顔だけである。お世話になった十年間で家がもう一度買えるほどのお金が出ていったが、時間と体のほうが貴重だった。帰りはバス代を浮かせるため、大量の水に濡れた洗濯物を抱えて一時間電車に揺られ、駅から一時間歩いて帰った。母がそうする日は桜の根元まで迎えに行った。毎週九時以降であった。家族全員が腰を痛め、祖父や母が三回ほど入院し、私以外にはもう誰も動けぬ状態が半年続いた辺りで祖父が体調を崩し、その日のうちに祖母が亡くなった。

どこからスタートを切ればいいのか、いつの日も惑う。怖い夢を見たと言っては泣き、誰かたくさん人が死ぬと言っては泣き、母も若い頃や死にかけた日には見るひとだったので、題目というか般若心経を平仮名で書いてくれた。「あー。あなたはあの人(父)の家系だから、私んとこやなしに……これ覚えなさい。はい、なむみょうほうれんげきょう。三回」。これはすぐに覚えた。というのは地主の幼馴染みが宗教を持っており、それ自体は別になんら問題ないことなのだが、あのうちに入ると20畳ほどの広間を占領する仏壇の前で「ナムアミダブツ」と一時間いわさせられたのである。対抗心でサッと覚え、うんざりしたので二度と近づかなかった。怖い夢を見たと泣く私を寝かせるため母が一度だけ諳じた般若心経が気に入ったので、私はそれを覚えようとした。いくら読んでも覚えられず、まああれは覚えるよりは字面を追って口で読むほうがストンと入ってくるのだが、父方の祖母に顛末をこっそり話すと、「ようできたお嫁さんや。うちの子にはもったいないなあ」と小さなアパートの揺り椅子でニコニコと笑って、今は観音経をやってるのよ……とそのお経をくれたりもした。父方の祖父は私が六歳、祖母は十歳で亡くなった。二人とも比較的ピンピンコロリ。祖母はその日のうちに私に会いに来てくれた。これは母方の祖母も同じだった。私はおそらくひょっとしなくてもまだ若く、あまり生きること死ぬことに執着がないから(?)出るほうも出やすいのかもしれない。私は目がことのほか悪いので、疲れきって寝て起きて誰もいないところに向かって話しかけ「誰に話してるん……」と言われたりもした。

母は母でなかなか気の毒である。祖父の父が納戸で亡くなったとき、誰かには事情を話したかったのか、血の繋がった兄弟ではなく、農家を継ぐことになる四男でもなく、一番下の妹、ゆりえさんの婿さんに出てきたらしい。母が八歳のときだった。押し入れに向かって正座しながら、「ああ、そうだったんですか……いえ、わかりました。後のことは心配なさらず。ええ、胸ひとつとさせていただきます。お養父さんもどうぞ安らかに……」と二時間も喋り続けているのを見て、高熱を出してしまった。この婿さんの稔さんもアルツハイマーにかかり、私の大伯母(叔母?)にあたるゆりえさんは祖父より一回り下ではあるが高齢のため、証言できる人は母以外にいない。やはり家系もあるのだろうが、これはこれ病気扱いされるので。

あと電波というのはものすごい圧力で私たちの精神を蝕んでいるのは間違いないことだ。特に日本語は相手の捉え方次第で如何様にも変化するふらふら言語であるため、こと霊界の話になるとネットでは難しい。私は有りがたいことに凡人クラスにしか感知できないが、この話題に没頭するのはやめておいたほうがよい。私自身、口で説明してくれる人を頼りたくなる日もあるが、自分自身を信じて、「たとえペテンでもええわい。私が選んで私が決めて、私が信じたことで騙されるなら仕方ないもん!」と開き直るのがいいと思うのだ。人は自分の言葉で自分を痛めつけもし、自分の言葉で自分を励まして生きてきた。私の見たり聞いたりしたものを、話もしたことのない人に代わりに信じてもらうことはできない。お互い様である。

妙な輩もどうしても電波で引き寄せられる。匿名性の厄介なところで個人も判別できず、誰しも神様ではないので一度しがみつかれるとお互い離れづらい。お経はそのために有効だから今日まで残ってきた。覚える必要はないどころか、もう一度出逢うまで忘れたほうがいい場合さえある。気をつけていても、とらわれてしまうから。私が出す答えは誰かの答えにはならないだろう。北野天満宮に納められている紺紙金字般若心経(コンシキンジハンニャシンギョウ)などは写経にいいのではないか。親王の筆致は爽やかで艶やかだ。

この世にはいろんな人がいる。今より若いころ私が足しげく通ったブログはお経ブログ。金髪ピアスのシングルマザーで、何を思ったか手帳の残りがもったいないからと写経にハマり十年以上。毎朝「おはようございまーす。今日の分です」と一日1枚から3枚、多い日になると10枚(!)ほとんど休むことなく写経写真をアップし続けている。息子の受験祈願から禁煙祈願……時には「思いつかんわ……みんな幸せになーれ……(`・ω・)つ━☆・*。⊂ ノ ・゜+. し'´J *・ °”」と……。普通のひとである。いい日も悪い日も受け止めている、私たちと変わらぬ人だ。しかし私がネットで読むのって、1000円握って近所の電車を乗り回して公園を撮るブログとか、年金暮らしを楽しみつつ子供も孫もいない夫婦生活のシニアブログとか、そんなひとばかりだなあ笑。

※余談だが、祖父自身は一切見ないひとである。浴びるように酒を飲むと、よく生き霊になって他人に発見されるタイプだったらしいです。

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