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2018/10/01 

私が記憶に残ってるはじめての記憶は二歳で、市内の動物園のゴリラが三階くらいの大きさにはねあがり、私に向かって踊って見せたことである。怖くて怖くて泣くのだが、大人は皆笑って誰も信じてくれない。その次は着ぐるみの中に人間を知覚したときである。クマの着ぐるみを着た知らない男の人に抱きつく幼馴染みを羨ましくも畏怖の目で見つめたーーなんでーーあれ、知らん人やないの? 話変わって幼児のときである。その頃には曼荼羅のような謎の光を壁に見ていたが、このときはそれが誰にでも見えるものと思っていた。幾何学模様といえばいいのだろうか……白い壁や紙によく見た。とにかくおかしなことを言う子供だと最初に気づいたのは母親である。

母は普通の専業主婦なのだが、結婚するまで百貨店委託の売り子をやめて、和菓子の菊屋の店長をしていた頃に、店長会議で知り合ったレストランの店長をしていた父と出会った。一回デートをしてやってくれと人づてに言われ、「えっ。あのひと30独身?40くらいで6人は子供いると思ってたわ」という風采のあがらぬ父である。煙草片手に適当に話を聞くと、口下手な父は仕事の話しかせず、内心「ないわー」と思ったらしいが、店にちょこちょこ母の様子を見に来ていた初対面から「ああ、この人と結婚する」という予感がなぜかあったらしい。母はモテる人なのでなぜ父にしたのかいまだにわからぬ。父は二回目で上司をつれてきて「この人と結婚します」と言った。はあ?と思ったらしいが母は母で人生ケセラセラ、流れのままに気の向くままに生きたい人である。とりあえず24で結婚した。父は九歳のときの熱で片耳が聴こえないのだが、返事をしてくれないと嘆いた私に母は、「あ、ごめん。いうの忘れてた。パパ片耳聞こえへんの」と言い、私は私でここに書くとき「記憶違いだったかな……?」と聞き返すと、「ん?ああそうそう。たしかそう」という人である。人のことには興味がないのかもしれぬ。私も私で酷いな。まったく気がつかなかった。少し反応が鈍いくらいに思っていた。

私の家は宗教も何がしかの思想も持っていない。倫理の本は勝手に持ってくる人がいる。あー、別に有名どころの危ないところではない。そういうのは祖母が大嫌いでおっ返した。あの謎の団体だけ特に勧誘もなく困りもしないので相変わらずもらってる。母親だけは仏教系の高校とデザイン系の専門学校を出ている。祖母と違って不信心なため、希望する高校に入れなかったのをきっかけに半ば無理矢理入れられたらしい。この手の学校は朝からお経である。「辛気くさい」「高校は捨てよう」と決めた母親は茶華道部に入った。その後の専門学校時代は楽しかったようだ。ただ私の思想の半分は母がときどき話す何がしかの思想である。母は昔から病弱だったが精神的なフットワークが軽い。こだわりがないのである。そのかわり信念も持ってる風ではない。誰かに称賛される生き方ではないが、こだわりの強い私より開放されて見える。

それはさておき、私の話である。私は物心ついた頃には、蝶よ花よと育てられ、ピアノにバレエに習字に塾に英語に通信教育に……と忙しかった。大半がやりたくもないこととはいえ贅沢で恵まれた人間である。よほどの大家族でない限り、私の世代から以降はこれがわりと普通らしいのだが(これに加えて土日は自営業の手伝いであった)……この辺り情操教育の不足を感じている。

それでもいつどのようにして遊んだのか覚えてないが、私の唯一子供らしい時間は友達の家でゲームをしたり、遊び場のない都会のマンションの外で体を動かして遊んで怒鳴られたり、公園で遊んでは大人に怒鳴られたり……なぜ大人は子供の話も聞かずに怒鳴るのやら……まあ私もいたずらには怒鳴るけど……しまいにゃピンポンダッシュでもしたろうと思ったが、誰も住んでない家屋に飽きてはやめて、フェンスをよじ登り釣りなどして過ごした。一人だとまず絶対に怒鳴られる小さな子を守って「なんで大人に頭下げるん!」と言われたりもしリーダー格の悲しさを味わったり、学校は学校で非常にめんどくさい社会構造なのでなるべく関わらなかった。虫で遊んどけという大人にはなんといっていいやら。私のころでもそんなである。今の子供に居場所や遊びの時間などないのはわかりきっている。

幼馴染みにこれまた大地主のお嬢がいたのだが、私は彼女と違ってアサシオ君(相撲取りを題材にした漫画)そっくりだったので、いじめられはしなかったが下僕のような扱いを受けていた。その子とは別に医者の娘がいたのだが、この子は腎臓が悪くて透析を受けていた。私は漫画の好きな普通の子供としてスクスクと育ち、高学年になる頃にはバスと電車で一時間くらいの自営業を手伝っていた。結婚と同時期に父親が始めたパン屋である。

家族で頑張ったがこれがうまくいかないのが世の常で、中学に上がる頃には店を閉めることになった。家や車や店を手放し、祖父(この頃には父方の父母は亡くなっている)が出しても借金が残った。父は新聞配達をして高校を出たあと、調理師学校の免許を持っていた。私が十歳の頃に母方の祖母のアルツハイマー症が確定し、この介護は以後二十年続いた。母は家を手放すことが決まった日に「ウサギ飼う」と言った。ちなみにウサギというのは臆病な動物で、家に来てから半月はなでまわしたりしてはいけない。インコやジュウシマツ五十羽、縁日のヒヨコしか飼ったことのない母親には無理な話で、その頃は今ほどウサギがペットとしてメジャーな生き物でなかったせいか、なかなかうまくいかなかった。「もうウサギは飼わない」と言った日もある。そこから夜逃げ同然に三回ほど引っ越すことになるのだが、新しい家についた日に買ったウサギが七年生きた子である。その間インコは13年生きた。

私は中学に入ると友人に誘われ茶華道部に入った。学校では本だけが友達と思われていた節があるが(全然しゃべらなかった)外の環境が忙しかったので疲れていたのである。借金があるのをどこから聞きつけたのか。それとも私の父親がパンチパーマに金のネックレス、革ジャンにレイバンのサングラスで現れるからかーー西田敏行のファンだった。しかし見た目はヤクザそのものなので誰の親父か噂になったーーそれとも私が見目麗しい母には似ておらずナマケモノそっくりだったのが仇となったのか、中二に上がる頃にはイジメが始まった。私は自分のことには鈍感なので最初はサッパリわからなかったが、リーダー格の女の子には見覚えがあった。小五のとき「私のグループに入らない?」と言った女である。コイツは曲者で控え目に言っても腐ったリンゴというに相応しいオーラを放っていたため、一言「いや」と言ってしまった。

うまくやればよかったのかなあ。いやいや、集団でかかられたところに私がブチキレて、そのままアイツだけでも殴ればよかったのだろうが直前で、「最後にやめたピアノのお稽古……また始められる日が来るかもしれないし……痛いのはヤダ」と躊躇い、「先生。私こんなことしとる場合やないんです。新しい店を手伝って勉強は家でやりますから、好きにしてください」と逃げ出したのが私の中では正解である。二軒のコロッケ屋を自転車で往復し、昼飯代の100円で手にいれた本だけを読みながら生活する日々が始まった。ちなみにこの店は高校に上がる頃にはダメになった。同学校ではイジメにより五人辞めて一人亡くなった。あまりこういうことを言って流言飛語にならぬか不安だが。学校は写真を撮るのがおすすめである。あの中学は昔から心霊写真が山のように撮れた。

中学の二年間の月日をうまくは書けない。永遠に感じたが午前中は仕事、昼間はスーパーの傍らでコロッケを揚げた。担任から聞いて集団で謝りにきた男子学生もいた。今が何年であろうと相変わらず不登校児が多いというがーーデジタルは上手に距離を取らないと駄目ですよ。大人だけど今年の私にも難しいーーどうしても嫌ならやめても大丈夫。

そのかわりに自分で決めた仕事(これは勉強でもなんでもいい。私は新聞を切り抜いて集めたり、通信教育でできる限り勉強した)居場所を見つけてね、と言いたい。ユーチューバーの中には不登校児もいるのだ。時代は常に変わっている。人に迷惑さえかけなければ、なんでもすればいい。あとは外を歩くことである。誰も見てない。ニートかと聞かれたら「冒険者です……」学生ちゃうかと聞かれたら「自営業を少々……」童顔のふりして歩けばよろしい。夜に寝られないなら昼に寝て、要らぬことを考えず家事から何からやれることをこなすのだ。そんな元気ないならテレビも消してスマホも消して、好きなイラストや写真でも眺め音楽をかけて寝たいだけ寝るのだ。モルダー、あなた疲れているのよ。疲れているだけよ!

私は気がつけば転校することになり(意図してのことではない。引っ越し先が手違いで校区外だったのだ)、お節介だなと思った目の笑ってない大人たちの話を聞き流しつつも、信頼のおける見た目は無愛想でも心根の優しい大人のアドバイスに従い、「中一で学力止まってるから、不良学校、通信高校、高専の選択肢しかない。できることあるか?」と聞かれて、ヤカンの絵を描いて持っていった。勉強は嫌いではないので、ギリギリ学力に達した。運よく受かった美術科の高校は遠かった。この奨学金は今もコツコツ払っている。月の交通費が二万円に対し、絵の具代がとてつもなくかかった。朝の6時に家を出て学校。夜の6時に祖父宅、祖母の介護はこのときまだ繰り返しの話を聞くに留まっていたが、自宅についた夜中の一時に疲れ果て課題を終え、夫婦喧嘩をバックグラウンドミュージックにラジオ深夜便を聴きながら寝るとーーああ、学校だけはとてつもなく愉しいけども、この生活はいつまでも続けられないーーと悲しくて淋しくて、涙がこぼれた。

高校二年目の春で学校は辞めてくれないかと親に言われたとき、進学の話を相談したのだが無理であった。三年の足りない部分は祖父が工面してくれた。祖父については幾分からかいに満ちた内容で書いているが(ジイジとは呼んでない。おじいちゃん、おとうさんである)それゆえ頭が上がらないのである。父親と母親は私が成人後に離婚することになった。私は心底ホッとした……時として「離婚する親の子供はかわいそう」と人はいうが、場合によるのである。まあ全方向は見られないので、言いたい人は言いたい風に言ってくれるのがいいのだが。私も書きたいことしか書けないので。ただ「ホッとした……ほんまにホッとした!!」という私の気持ちも、本音である。私と母は祖父宅の側に別の家を持ち、父の消息は知らない。腹をたてていることはさておき、一度電話をかけたが繋がらなかった。板前の修行に出て十年以上であるが……まあどこかで生きてることだろう。

大人になってからのことは、リアルに差し障りがあるので、また機会があれば。たいした人間ではない。私は昔からちょっとオジチャマ趣味であったが、それ以外はごくごく普通の、どこにでもいる人間であることを書きたかった。自叙伝になるのかな。「話せ」と言われたので自分で読むには面白みもないが書いてみた。読んでくれてThank You!

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