管理人サイト総合まとめ

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2017/12/19 

1

 花弁がはらはらと散るに任せ、温室では色鮮やかな花の薫りが、辺りに充満していた。聡一郎には理解しがたい嘲りがあった。若さというものの本質は賎しさである。反芻しつつ言葉を区切った。俺には清らかすぎるので、礼子に触れることは叶わぬのだと聡一郎はいった。男は静かに聞いていた。差し出した野太い脚にも聡一郎は躊躇わず、泣き臥しながらそれを掻き抱いている。男には意味がわからなかった。自分が阿呆である自覚はあったので、若さの残る聡一郎の精悍な容姿を見ながら、(仏さんというのは酷なことをなさる)と言った自分の父の顔を思い浮かべていた。聡一郎は男の股ぐらに分け入り、脚を撫でては恥骨の際で男の逸物を揉みしだいていた。男はうふふと笑い声をあげた。擽りは徐々に悪戯で済まぬほどの熱を帯びたが、男にはたいした意味は持たなかった。勃ちあがる深淵の先では、聡一郎が真っ赤な顔をしながら蠢いている。着物の裾から盛り上がるそれを気の毒に思ったので、男は眉間に皺を寄せながら脚先を聡一郎の胯間に充てた。
「うあ」聡一郎は痛そうに腰を引いた。唇を濡らして鼻腔を広げている。そんなに面白く愉しいものかこれは、と男は首を傾げた。ときおり温室の前を通る聡一郎の従姉妹たちは、それぞれ美しい。男は特に一番上の少女を気に入っていた。まだあどけなさの残る脇の下の薫りは甘美で、すれ違い様に揉みしだいて手込めにしてしまおうかと思ったことも一度や二度ではない。姉妹のそれぞれが少女の頃から、その想いはあった。機会があればと考えているうちに、長女の礼子が少女の域を脱した。従兄弟の聡一郎が礼子を眺めている自分に気づき、話が通じぬとわかれば暴力で始末をつけようとしたのが間違いだった。男は阿呆だったが男に抱かれている男の臀を知っていた。美しい臀だと思ったので其のままを口にすると、聡一郎は蒼白と成り果て「礼子には云わないでくれ」と膝をついた。男はそんな頼みごとをされる謂れはないと突っぱねたかったが、生憎その言葉を知らなかった。返事を考えあぐねているうちに、聡一郎は強行に及んだ。男は憐れな生き物を拒むことはしなかった。肉弾戦の最初の相手は父親で、もう一人は結核で死にかけている。礼子という人の父親もやはり憐れな生き物だったので、少年の俺を抱いたのだよと囁いたが、聡一郎は聞いていなかった。事を急くので花の一輪を手折って「ああ、ああ」と頭ごと鷲掴みにしたが、聡一郎はハッとしたように男の髭面を撫で摩り、済まぬ済まぬと泣き出した。
 男は面倒になって聡一郎を脚で追いやった。残りの始末を自分でつけるのは大層むなしい。半裸の布ぐりから起き出した己をしごくに至り、脇に落ちた花の頭に顔を埋めた。浅く繰り返す吐息の数だけ、湿り気が腰まで悦楽の色を響かせる。膝を立てて胯間だけ突き上げると、その様をじっと見ていた聡一郎の目が情欲に潤んだ。来いと片手を伸ばせば、指先のひとつひとつをしゃぶり始める。可哀想に、と男はまた思った。痺れは脚を縫うようにして脳髄まで焼き尽くす。己は阿呆である。やりたいように始末をつけたところで、誰も何事にもならんだろうと思うのである。
 聡一郎に限らず、世の男たちは力の限りを囀ずり、支配し、壊し、叫び、争い、恐れていた。男にそれがなかったのは、不運というよりは仏の悪戯である。男はよく寝起きにそれを視た。女の躰ほどもある二の腕であったり、昔迷いこんできて飼ったはいいが近所の子供に煮られた猫の生前の姿であったり、顔を知らない己の母親だったりもした。幾度も視るのは海の浅瀬で名前を知らない小さな鳥が大量に沈んでいるのを、網で掬って生きているか確認する作業である。怖い映像になると地面に埋まった頭だけの男がこちらに向かって叫び続け、まばゆい光と共に消え失せてしまう。よく知る優しい父の死に際が何度も繰り返されたり、果ては遠い国の天災がたびたび男の脳裏をよぎるのだが、生憎これも男のシナプスの速さには限りがあって誰にも説明しようがなかったし、仏にすがれば「諸行無常」と一言還るのみであった。
「ああ……ああ、あああ」
 男は俯せて腰を突き上げた。両手にしっかと掴んでいる鰻の寝床はまだ行き場を探しあぐねている。男は半開きにした目蓋を硬く綴じ、眉根を寄せながら自分の指を二本舐めた。生臭くしょっぱい味に、鼻息を荒くする。様子を窺っている聡一郎が、ごくりと生唾を飲み込むのがわかった。そんなにやりたきゃ遠慮はいらぬ、はよう手伝えと命令したくなった。指を間繰り上げた着物の裾から肛門までさすりあげ、いきりたって濡れている棒に合わせて上下する。蕾の花開くときには雨露の助けが必要なのだ。扉は叩かれた。聡一郎は叫んだ。背中に張りつく重みに男は勝利の笑みを浮かべた。
 なんと容易い。門の淵に添う舌先のざらりとした感覚に喘ぎ、男は聡一郎を受け入れた。すぼまる脚を後ろから開かされ、肉食の獣は若い獅子であると思い知った。時間はかかった。熱を発して、二人は叫んだ。男は久しぶりに元気な牡を呑み込み、夢中になってそのうなじを味わった。頂きには聡一郎のほうが早く到った。聡一郎は申し訳ないと男を抱いて、男はまた憐れな案山子のように荒らされる自分の畑を、夢見心地で愉しんでいた。

2

 礼子は日毎に色香を濃くした。男は花を渡した。礼子はそれを捨てた。男は微笑んだ。やはり賤しい。特に若い女はいずれの場合も、いやしい顔をしている。表面的に綺麗な言葉を吐くときは尚更、それが際立つ。男は礼子がいとおしくなった。賤しい顔の化けの皮を無理に剥ぐことはない。人間は皆いやしいものだ。男にはそれがわかった。己も浅ましく女子供を心の中で抱いてもいい気がした。
 聡一郎は毎晩同じ時刻に訪れた。男は哀しくも浅ましい礼子の姿を思い描きながら抱かれた。聡一郎は二十半ばを幾つか越えた程度の若さである。己は四十手前であると数えてみたが、呆れたことに指折る節の何を思ったか聡一郎は指を握ってきた。男は邪険に扱うのも手間がかかると、指を凪ぎ払ってまた抱かれた。つまらぬ。勢いに任せていれば、相手を盛り上げられると思うのだろうか。男は愛し方を知らぬ若い牡には飽いていた。戯れに口吸いをしてくるが、己の口臭に吐き気を催して顔を逸らした。男はうふふとまた笑った。喉の奥に絡みつく低い音に、聡一郎は気をやった。断続的に放たれる放流が自分の内部で熱さを増す。男はつまらぬと思った。すぐに盛り返すであろうことはわかっていたが、聡一郎は汗だくになって「すまない。すまない」と囁いてくる。
 脚の合間を河のせせらぎの如く生暖かなものが出ていく。弾き返す肉の狂おしい擦りに「嗚呼」と吐息を吐いた。聡一郎は一瞬止まった。男は聡一郎の視線を受け止めた。気の毒に。押し隠せない疼きが内部にあるのだろう。その鎮めかたを男は知っていた。逃げようとする背中を羽交い締めにして、どちらのものかわからぬ帯で手首を縛る。横抱きにすれば「助けて」と啼くので「よし」と云った。可哀想に。軍隊での其れは大方の者には戯れだろうが、聡一郎にとっては違ったのだろう。臀をまさぐると皮膚の摩擦に堪らぬと首筋を紅くするので、かつて喪った猫のように舐めほどいてやった。気にすることはない、これは不条理な世界ではない、道徳に反すると世間という名の辿々しい賢い阿呆が決めたのである。俺に任せれば恐くはなくなる。釈迦とて情欲から助けてほしいという弟子に、女の姿に変化して抱かれてやったではないか。

「れいこ」

 男の鬼頭が入り口をあがつと、聡一郎はその名前を舌に乗せた。なんて軟弱な子だ、と男はあっという間に萎えた。聡一郎は泣いた。顎を曝して厭がる唇を塞ぎ、舐めほどきながら太股の内側を撫でてやる。臍につきそうなほど腹に突き上げる陰茎の端が、とろりと先走りを溢して痛そうにしていた。萎えた己の牡と重ね合わせ、触らぬように躰を抱き合わせにする。焦れったいのか指で慰めようとするので、「莫迦をするな」と叱責した。ばか、するな、くらいの言葉尻を捉え、聡一郎は泣きながら笑った。阿呆が莫迦と云うのがそんなに面白いのか。男は反射的にその頬を叩いた。聡一郎は呆気にとられた。一瞬の暴力で男の精は盛り返した。人を殴りつけても股ぐらというのは勃つのだ。興奮するように出来ている。男は聡一郎の整った面を馬鈴薯のように変える妄想に浸った。しかし聡一郎はそうしてくれと謂わんばかりに微笑んだので、そうはしなかった。興が削がれたのではない。狂乱でなしに只の遊びを愉しみたかっただけだ。
 その夜から聡一郎は雌になった。雄に従うだけの玩具ではない。男を愉しませる可愛い雌狗であった。男は思いの様、若い雌を貪った。

3

 礼子は訥々とした優しそうな女であった。男は暴いて見たくなった。礼子には知られたくないと聡一郎は夜毎泣いた。水桶で躰を拭うと、甘露な輝きが男の底にまで満ちた。コツ、という音に振り返ると、己の父親が立っていた。

「穢らわしい」

 無表情だった。男は恐ろしさに身をすくませた。下駄と杖の音が交互になる。叩かれるに違いない、と地面に身を伏せた。しかし日照りを遮った痩身は、震える男の濡れた腕を取った。井戸の近くまで引き戻される。抵抗は虚しかった。見上げると洒落た帽子を被っている。男の前に膝をつき、父親は男を隅々まで拭った。
「聡一郎のことで来た」父親は暴れる男の膝を叩いた。「出来損ないが何人もいるのは、俺の業というやつかな」
 ううう、と返事を返す。生来病死苦と離脱しているような臭いを放ってはいても、父も齢八十近い。生きるのに飽いたと云いながら生きることに固執している。己は阿呆だが阿呆なりにそのことを憂いた。父は女を生涯抱けぬかもしれぬ己の牡をときおり可愛がり、そのように創った俺の愚かな子種を赦してくれとよく泣いた。
「眉目秀麗という言葉はわかるか」父親は足元の濡れた土に近くの枝で漢字を書いた。「中国の呉という国には、周瑜公謹という軍師がいた。周家は女性とみまごうばかりの美しい者が多く居たらしい。中でも美周郎と吟われた周瑜はかなりの美形だったそうだ。秀麗の秀は周瑜の周だという人もいる。お前より若くで死んだが、彼は天才だった。魏の諸葛孔明をして唯一の宿敵であり盟友なのだよ」
 男は寒気に脚を震わせた。そのさまを父は笑った。着物の上から羽織った黒の外套をかけてくる。男は嘆いた。父も年を取った。罪には罪で購うと言い残して、もうじき死ぬのだろうと思う。

 人の世はなんと儚い。

 男は聡一郎のことを伝えたかった。視ている世界の端の方では、理解を拒む言語が流れている。不確かなこの世で唯一確かなものは、お互いの躰だけだった。其れゆえ男は父の襟首にかじりついた。父は静かにされるがままだった。この世の理屈では於曾毛を振るう互いの経験を、なすすべもなく交換した。父は己の阿呆を赦してくれた。男は父の阿呆を赦していた。この世の成りでは触れてはならぬ天女の姿を通りの向こうに見かけ、男は父から離れた。外套は地面に落ちた。
 礼子は祖父の近くに男の姿があるのを一瞬見た。頻繁に感じる謎の視線を、花の一輪で知覚した。しかし礼子の脳は事実を覚えておくのを拒否した。男はただの気味の悪い男でよかった。男自身も其れを望んでいた。
 日高喬平だけは事実を見ていた。感慨に更けることなく、妄想に浸ることなく、現実を直視していた。息子と孫娘は繋がりを持たずに離れた。安堵の気持ちより残念さが勝った。近頃は一層、自分の犯した罪の重さで腰が痛くなる。喬平は仏の名を詠んだ。特に悔恨も感じていなかったが、孫娘が返事をした。

「寒いわ。還りましょう」

4

 陽は急激に昏れた。男は聡一郎が来るまで花の手入れをした。花には花の事情もあるのだろうが、どれだけ世話をしても枯れかけると早い。男は礼子を想った。あの花が枯れる頃には己は幾つになるだろう。純朴な田舎娘が男を知ると、人が変わったように散ることがある。人が手折って遊ぶ紅葉の手入れをしているとき、男はかさいだ葉をぱらぱらと掌で握り潰し、矮小だと幼き日に父にからかわれた逸物を片手で握った。通りすがりの中年男が鼻を鳴らして己を見る。男はますます勃起した。抗うすべもなく歓楽の渦地に陶酔した。聡一郎が立っていた。
「待ったのか」彼は目尻に泪を浮かべていた。「待ったのか莫迦。待っていたのか!」
 責められる謂れはない。待っていたわけでもない。男がいつもより身綺麗にしていたせいか、夕暮れに立つその姿が聡一郎には歩く鋼のように映った。ゆらりと傾いだ己の前で、聡一郎は両の拳を握って虚ろっていた。襤褸を着ている我が胸のうち、縦て裂きにせんばかりに襟ぐりを掴まれ、口づけられる。誰かに見られでもしたらなんと言いわけをするのか。舌の根を掬うようにして聡一郎は無我夢中だった。男は己の分身を扱きながら、互いの間を往き来する細い繋がりを欲して腰を揺らしていた。
 枇杷の樹が近くの民家に見える。男は蜜柑色に染まる世界の暗さから逃げるようにして、聡一郎の頭を掴んだ。飢餓はおさまらぬ。渇きは癒えぬ。勃った逸物の猛りも忘れて、聡一郎の愛撫は口の中だけで蕩けた。燦爛たる輝きが辺りに満ちた。男は燃え盛る太陽を直接見たくなり、追ってくる聡一郎の舌先を引き剥がして後ろを振り返ろうとした。しかしいくら顎やら耳やらを手で押し退けても、聡一郎は己の唇に固執した。涎を拭った男の手の甲まで嘗めてくる。
 いつまでも誰も通らぬ角地から、聡一郎は男の手を引き温室に引き戻そうとした。男は従ったが、門を潜ると聡一郎が下穿きを下ろしたので嫌気がさした。身悶えするほど寒い。扉の柵を握らせようとする。膝立ちになった聡一郎の肩を持って縋ると、生暖かな咥内が男の淫乱な肉を喰い始めた。男はきゃあと啼いたが、慌てた聡一郎が自分の着物から手拭いを出して口に食ませる。あとは思いの外、熱心なしつこさで精を搾り取られた。男は聡一郎の短い髪をひっつかみ、かき混ぜ、頭の形を撫で摩りながらふぅふぅと息をし続けた。
 男は盛りに火の点いた己を何度か散らし、よくはぜるものだなあと不思議に思った。聡一郎は俺の臀を掴みながら、鼻で陰毛の臭いを嗅ぎながら、よく我慢していられるものだと可愛くなった。喘ぎながら足掻いて指を伸ばす、綺麗な面をあげさせる。「挿れる」と云うだけで情欲から憂いた眦を下げる。臀の合間を全部の指で引っ掻きながら暴いてやると、早くと謂わんばかりに突き出すので自然と笑みが零れた。
 身を沈ませたころには陽は完全に翳り、男の躰はひとつになって寒空の下を蠢いていた。

5

 脛に疵を持つ身となれば、歯痒いような思いがしても後先を考えず行動に移ることは難しかった。聡一郎は男の躰を知ってから連日、見たこともない淫夢に魘されるようになった。
 聡一郎の母親は礼子のところと違って、身振りも派手で賑やかしい女である。聡一郎自身は其の母のよい部分に目を向けるのは難しかったが、従姉妹の礼子は違った。
「伯母さんは華やかで明るくて羨ましいわ。お母さんは一見穏やかで優しげに見えるでしょ。でも気性は荒いし短気なところがあるの。表には出さないぶん、一度怒ると誰も手は出せないわ。お父さんでさえ、そんな風になったら『お前。どうしたんだ、お前』ってオロオロしだすのよ」
「そんな叔母さん、見たことないな」聡一郎は笑った。「礼ちゃんも叔母さんに似たところがあるね」
「みんなそう云うのよ。なぜかしら。妹たちはお母さんに似て華やかだけど、私の中にお母さんはいないと思うな」
「どうして?」
「ほら。髪だって目だって。わかるでしょう、違うの。お父さんに似ちゃった」
 違う、と聡一郎も思った。礼子は両親のどちらにも似ていない。祖父の喬平によく似ている。身振りも手振りも視線の投げ方も、果ては脚の運びかたまで祖父譲りだった。
 ああっ、と礼子が道の端まで下がる。どうしたの、と振り返った聡一郎は、そこに情夫の姿を見た。男は一瞬、目をぎょろりと回して足早に去った。聡一郎は躰の疼きに苦しんだ。男は何も知能に問題があるわけではなさそうなのだが、滅多なことでは自分のことを話さなかった。聡一郎は名前を尋ねるべきか悩んだが、そうはしなかった。どこの誰かも知らない男と、毎日のように寝ていることを純真な礼子は知らない。
「気味の悪い男だね」聡一郎は眉根を寄せた。「何かされたの?」
 礼子は何も云わず襟首を掻きあわせた。聡一郎の牡は猛り狂った。花を散らして叫びたい衝動に駆られる。日毎に行われる乱舞の世界に礼子を捲き込めば、彼女はどんな声で啼くのだろう。
 この世に裏の無いものなどない。聡一郎は自分の清々しい顔が世間の女にどう映るのか、よく理解していた。礼子は俺を好いている。軍医になってからというもの、想像とはかけ離れた毎日が苦痛で仕方なかった。切っては貼り貼っては切り、縫っては酔い酔っては縫い。次第に疲れから条約破りの監獄囚の脛を誤って切ったのが運のつきである。聡一郎の弱い心根は仁義などものともしない力で押さえつけられ、牡の味を無理やり覚え込まされた。容赦のない濁流に呑まれ、攻められ撃ち込まれる姿を見て、囚人は愚か上官も自分を嘲笑った。そうすることで自尊心を無くさせ、絶対服従の世界から抜け出ようという気力も全て霧散させるのだ。

 礼子は俺を知らない。知らぬから幼き日の恋慕をそのまま俺に向けている。

 聡一郎の心は荒んだ荒野の針葉樹まで翔んだ。北半球の空ほどになった大きさの自分が、剣山に突き刺さるようにして彼処に刺さるとさぞや気持ちが晴れるに違いない。何も知らない小さな礼子の前で血塗れになりながら、痛い痛いと悦びに浸って樹のうろに生き血を吸われてしまいたい。赤く染まった樹の表面を、男が梳りながら擦ってくれるだろう。俺には生きる宛てなどないが、男の渇きの一滴にでもなれるなら、それは何よりも嬉しいことだと聡一郎は空を仰いだ。

6

 礼子は蒲団の端を噛み、己の躰に指を這わせた。聡一郎が凶行に出た夜のことであった。
 女の慰め方を知らぬころから、その習慣は無意識で行っていた。学生や妹がくちづたえでやるやり方は礼子には合わず、生徒から没収した艶本にもその方法は載っていなかった。礼子は左足をゆっくり持ち上げ、腰で持ち上げたそれに右足を乗せた。自重は子宮を腹の側から移動させる。臍のあたりに意識を集中して、両足を徐々に下げた。
 快楽は殆ど一瞬のことである。月のものが来ていないときなら確実な方法だった。左の足首は地面すれすれでその時を待つ。胯間の疼きは断続的に振動を与えた。礼子は蒲団の端を確りと掴み、全身を棒のように伸ばした。一瞬が過ぎれば、荒く息をつく。繰り返しには腹筋が必要だった。礼子には五回が限度だった。
 終わった後の始末は必要ない。次の小用で懐紙を変えればよいだけだ。しかし礼子にはわからなかった。聡一郎が急変したのは、なぜなのだろう。酒に酔っていたせいで思わず逃げてしまったが、順序が違うと礼子は微睡んだ。告白であるとか、花であるとか、なぜーー。
 礼子は近所の温室に籠りきりの、阿呆を思い出して身震いした。花はいけない。あれを思い出すから。礼子は生ぬるく熱い己の花芯に指を這わせた。いけない。覚えては戻れぬ世界がある。子を為すその日まで触れてはいけない。礼子は溺れた。櫓の奥では狂おしい光が濃密な色を持って瞬いている。触れてはいけない。触れては。
 聡一郎の蒼白い髭の剃り痕など目に浮かべるのを、名前も知らぬ阿呆が邪魔する。厭に目玉の大きな人だった。大きな躰を熊のように丸めて、此方を窺っている。お前より若く清らかな存在を知らぬから渡せと要求しているようだった。礼子は左足を少しずつ開いた。花の蜜は寝間着を汚しそうである。聡一郎のことを考えた。正月が過ぎてからまた顔を出せばいいわと眠りに堕ちた。

 二つの生き物が顔を付き合わせ相手を呑み込もうと口を開けている。相手の胯間に伏せた頭の一方には、見覚えがあった。礼子はなぜ自分がその姿を俯瞰出来るのか疑問に思った。棒のようなモノをくわえて、一方は腰を揺らしながら一心不乱に作業を続けている。もう一方は舌を突きだし、暫く己の上をいったり来たりする相手の遊びに付き合っていたが、はあ、と嘆息して頭を横にした。
 天井にいる礼子の目と目が合う。男は何度か瞬きをした。礼子も吃驚してしまった。あの男ではないか。私に花を渡しておきながら、もう違う相手と逢瀬を重ねている。男は礼子の怒りに気づいたようで、自分の逸物をしゃぶることに熱心な相手を押し退けようとした。そのとき、礼子も其れが誰であるかを知った。
「厭きたのか」聡一郎は泣いた。「僕に厭きたんだな。そうだな?」
 男は目の前でぷらぷらとしている聡一郎のタマを平手打ちした。弾き跳ばされた聡一郎が、ぎゃっと叫んで座敷の端まで自ら転がっていく。男は礼子から目を離さなかった。礼子も男から目を離さなかった。
「どうして。どうして?」
 聡一郎は泣きじゃくっていた。礼子はいまだかつてそんな聡一郎を目にしたことがなかった。身近な男といえば祖父と父と聡一郎しか知らない。まさか成人をとうに越して軍医としての地位も安泰とまでは逝かねども出世街道をはずれたことのない従兄弟が、赤ん坊のように泣くなど考えられぬことだった。
 男は身振りで礼子に(待ってろ)と伝えてきた。礼子には其れがわかった。男は裸の聡一郎のもとまで這いずって着物を肩にかけた。聡一郎は男にしがみついた。男はしー、しー、と繰り返した。背中を叩く優しいリズムは、礼子が生徒に教えているカスタネットの音によく似ていた。礼子はその場に立ち止まって、男と一緒に聡一郎を慰めたかった。しかし其れは叶わなかった。
 礼子は妹の声に叩き起こされ、男も聡一郎も霧のように消えてしまった。

7

 喬平は座敷で筆を下ろした。掛軸を外して腕を組む。椿の花が届いていた。下男の方が持ってきました、と云う言葉に頷いて手を振るう。少々頭の弱いあの息子は喬平が年を取ってから外に創った子供だった。
 聡一郎の父親は早くに亡くなり、残りは礼子のところだけである。喬平は大きく息を吸い込んだ。あれは気の毒な身の上だ。下男とはよくも云ったものだ。若い頃の自分にそっくりな大顔をこれまた大きな躰に乗せている。死んだ正妻は勿論、女中もよく理解している。あれは俺の息子だ。つまりは聡一郎や礼子の義理の叔父にあたる。
 筆の運びは其処でまた止まった。椿の頭が堕ちたのだ。畳の上を紅い花弁が分かれて弾ける。喬平はくすりとした。千利休の孫息子は僧侶だった。使いの小僧が持ってくる折れた椿の花をしかることなく、利休の器に茎だけ入れて、花の頭を畳に置いたと云う。これぞ落花の風情。
 詫びも錆びも無い世界を生き長らえて、喬平は着流しの襟足から、すうっと手を入れた。己の乳首を擦ってみる。痛みを覚えたので指先を舐めほどき、更に摘まんで転がしてみた。淡い緩急で背筋が痺れる。長いこと勃つことも忘れた箇所に意識をやってみたが、何も変わらぬことなく静寂は続いた。
 己は飽いた、と誰に云ったのだったか。やるせない想いで先々のことを偲んでみたが、自分の生きざまも決して他人には偉そうに物も云えぬと黙ってしまう。聡一郎は気掛かりだった。他はまあ各々生きていくだろう。特に礼子などはしたたかで情の深い女だ。聡一郎には荷が重すぎる。あれの性根は折れやすい。軍隊の中での出来事は祖父の喬平でさえも聞けはしない。あいつの目に光が消えたのはいつだったろう。その目に光が戻ったのは。その先に目をかけることなく追いやった喬平の息子がいると知ったのはーーいったいいつの、ことだったのだろうか。
「先生」
 電話の音にも気づかなかった。喬平は面を上げた。蒼白な女中の顔に、此方から掛け直すと告げた。椿の頭が気になった。辺りは静かだった。

 顔を上げると、礼子が其処にいた。

 喬平は何があったのか聞かなかった。女は女のままだった。孫娘とは云えない様で、女がひとり狂気を孕んでいたので、喰われぬように静かに相手をした。
 礼子が去って暫くすると、喬平は椿の頭を手に取った。掌でくしゃりと潰せば、もの云わぬ花弁は年老いた自分の指の間で、喘ぐようにして息を引き取った。

8

 聡一郎が最期に来たのは、黄昏どきだった。いつかの日に外気に触れながら抱き合った、蜜柑色をした空の下である。
 此れから起きること、遣らねばならぬことを己にだけ話に来た。言葉が理解できぬと思ったからだろう。生憎、言葉はわからぬが言葉以上のものを視ることが出来た。意思に反して見たいとも思わぬ光景を知り、男は聡一郎の襟首を掴んで引き留めようとした。
 聡一郎は戸惑った。男が自分の言葉を理解していたからではない。聡一郎自身に執着があるとは思えなかった相手が、必死で己を引き留めようとしている。
 男は聡一郎の両の耳を削がんばかりにして、懸命に言葉を繋いでいた。其れは聡一郎の知るところの言語では無かったが、彼の心には間違いなく届くものがあった。捲し立てながら潤む眦に絶ちきれぬ情を覚え、聡一郎はその頭を同じく両抱きにした。
 唇は鉄の味がした。泪はいつかの如く甘露だった。合わせた躰の芯には、聡一郎の知るところではない血の轍が互いを結びつけていた。
 男は礼子の父親を思い起こした。あれはいつのことだったか。おとなしく飼われていた温室に奴が押し入り、自分をじいっと見つめたあげく、己の父親と同じことをしたのだ。優しさは露ほどもなかった。欲望も情念だけだった。男にはその理由を推測する程度の知性があった。互いに極めた頂点は絶え間無い暴力の応酬だった。恭平が止めに入らねば死んでいたに違いない。勃ちあぐねて行き場を失った激情は、彼の娘たちに向けられた。幸運なことに、全てを解きほぐして誰かに語る言葉を、己は持っていなかった。

 男は泪した。

 哀愁の念と云うのは、誰にでも理解できるものではない。薄情と云われても切なさを感じられぬ不幸な気質とて確かにある。男に云わせれば、其れはまだ生まれて間もない魂の欠片のようなもので、充分育ってはいないのだ。責める時間をほかに廻すより仕方がない。記憶とは其々が同じだけ持ってこの世に生まれ堕ちるわけではない。役割があるのだ。そして聡一郎の役割はじきに終わる。
 男は嘆いた。聡一郎は受け入れた。打ち寄せる互いの波を乗り越えては遠ざかり、また出逢う約束を遺して、二人は別れた。

 其れで最期だった。




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