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2017/12/17 

 櫻の降る季節である。俺は待っていた。花屋の軒先には雉鳩が巣を造り、燕と競って喧嘩をしている。須田さんが訪ねてきたのは午後だった。
「アキちゃんとこ行こうよ」
「ごめん。今日ね、夕方ちょっと用事あってさ」
 用意していた言葉だとは気づかれない。須田さんはため息を吐いた。
「そっか……じゃあ仕方ないね。残念」
「実は今さっき食べてきたんだ」
「ん?」
「うん。お腹すいててさ」
「ーー」
 反応を確かめる。向こうも俺の態度に慣れている。しがない駄菓子屋の店主は適切な文句も見つけられず悩んだ。賭けには俺が勝った。須田さんは眉間に皺を寄せた。
「そんな顔しないでよ。須田さんも行ってきたら?」
「僕ひとりで?」
「ひとりで」
 沈黙のベールが重く垂れる。次の幕開けには一人舞台だと言われて、言葉を忘れた役者のように須田さんは黙りこくった。俺は待った。時間がかかった。須田さんは台詞を絞り出した。
「ーーじゃ。いいや」
 俺は深く安堵した。態度は台詞を裏切った。
「またそれかよ、めんどくせぇな。もう一回行くよ! 水飲んでるからね! 今月苦しいんだから!」
 これは須田さんと俺の話だ。俺は人には言えない感情を彼に対して持っていた。長い長い歳月の果て、淡い信頼は高い壁の如くまで積み重なり、次の線には越える機会もありそうになかった。須田さんは俺の持っている感情は知らず、ときどき合わせる視線さえ逃げる理由も理解していなかった。

 俺は須田さんが好きだ。

「アキちゃんとこ、昼休憩入っちゃってたね。ここ高いんだよなあ」
 古い商店街には、何軒連なっていても駄目な土地というのがある。たいてい町の樹木に隠れた角が危ういのだが、その店はまさにそんな場所だった。どんな店を構えても一年と持たないのが普通なのだが、かろうじて二年持っている。店の前に置かれているメニューだけで尻込みしたが、入ったのは須田さんの薦めだ。
 最近は食が細いので、一日二食にしているらしい。
「四ツ辻の向こうにさ、空き地があったでしょう」
 適当に頼んだ定食と酒で、「昼から飲むのかよ」と止めたが聞かない。何か嫌なことでもあったのか、と顔をのぞきこむ。「どこのこと?」
「コンビニの裏手の」
「あー、ヤブ医者の隣かあ」
 子供のころから有名だった。薬の販売だけで持っている内科だ。看護師だけに任せていればいいのだが、ニコニコ顔のカバみたいな医者が経営している。いまどき珍しくもわかりやすいカツラが好評で、近所の笑い者になりつつも親しみやすいと評判だ。悪い意味でだが。
 ヤブはヤブなので痔の患者に座薬を出したり、便秘の子供に大人用の浣腸をして痔主にしたり、内情は最悪である。
「しっ……お客さん、他にもいるんだから」
「あそこがどうかした?」
「例のヤブが、買い取るらしいよ」
「ふうん」
 須田さんは階段から落ちた話を持ち出した。明らかに骨折とわかるそれを「大袈裟な。なめときゃ治るよ」と何時間も待たされ、いざ診察となってから「なぜもっと早く言わなかったの!」と叱責されたらしい。あの医者ならやりかねない。ウサギを飼っている喘息の子供に、「ウサギなら食べられるからよかったね!」と泣かしているのを見た。
「あ、そうそう知ってる? ヤブってさ。破れかぶれのヤブかと思ったら、違うらしいんだよね」
「違う?」
 須田さんは食いついた。
「うん。その昔ヤブさんっていう名医がいてよ、あまりに優秀だったんで、儲かるわけよ」
「うん」
「そのうちね、周りの医者が『俺はヤブの弟子だぞ!』『ヤブのところから来ましたよ!』って言うんだけど」
「わかった。評判が加速して、ますます儲かるんだ」
「違うよバカ」俺は笑った。「周りの医者はみんな馬鹿なんだよ。弟子っていうのも騙り。そのうち当人以外は出来の悪い医者ってことがバレて、まとめてヤブって言われるようになったらしいんだ」
「……バカ?」
「そう馬鹿」
 箸で宙をさすと、行儀の悪さを咎める小姑みたいな顔で、須田さんは嘆息した。「僕、帰るわ」
「えっ。どうして? ……あっ、ちがうよー! 別に須田さんのこと言ってんじゃないって!」
 もちろん須田さんのことである。俺は彼の気を引くすべを知っていた。須田さんは会話のウィットが理解できる人だ。
「はっきり言ったよね」
「ははは。耳遠くなってきたんじゃないの? そのうち外国語と日本語の区別もつかなくなったりして!」
「やっぱり帰る」
 前言撤回。逆鱗は年齢のことである。
「おい。ここは割り勘だよ? えっ、なんで一人8000円もするの?!あんた食べ過ぎだよ!ちょっと須田さんったら!」
 誘われたふりで計画したデートはおじゃんになった。俺は気にせず残りを平らげた。こういう日もあるさ。賭けに負けた花屋の財布は薄くなったが、心はほころんだ。


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