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2017/12/09 |
「須田さん。お花あげるよ!」 最初は独り言もささいなものだった。 「わあ。ありがとう。僕、男の人から花もらうの初めてだよ」 テレビに向かって返事を返したり、新聞の記事に腹を立てたり、風呂場で架空の相手に文句をつけたり。 「毎日あげてるじゃないの。花買いに来る日は」 それを逆転の発想で利用してやろうと思ったのがいけない。声音を真似なくても相手の呼吸や間は知り尽くしている。 「そういう意味じゃないよ。でもありがと!」 俺は満足感に浸った。理想が形になる瞬間というのは気持ちのよいものだ。 「よし。こういうのだよ。これだよ! これこれ! これで行こう!」 ーーたとえ相手がその場にいなくても。 「なにしてるんですか」 女性の声にビクッと振り返った。うちの店は大通りからは離れ、人通りのまばらな小道にひっそりたたずんでいる。平日は配達のアルバイトと常連客くらいしか訪れないため、俺にはその声が誰だかすぐにわかった。 「あっ。アキちゃん、こ。これはね!」 「終わった?」 俺の言いわけを遮って、アキちゃんは平然と言った。 「……いつから見てたの」 「あー、『誕生日おめでとう。還暦過ぎたら年は一個ずつ減らそうね。俺、須田さんよりだいぶ下だし、長生きしてね!』あたりから?」 「最初からだよね。二十分は見られてたよね」 店の時計を見ると、体感よりもう十分、時は過ぎていた。アインシュタインはやはり偉大だ。時間は相対的なものだ。俺が親父から継いだ店を傾けているうちに、隣町の花屋は内装を新しいものに変えていた。 「お花ください」 アキちゃんは何事もなかったかのように、ガラスケースを指さした。これは俺が花屋の若旦那になったとき、当時は最先端だった内装にリフォームしたものだ。冬場は寒気から、夏場は虫から花を守ってくれる。難点は狭い店内をより狭くしたことだ。 「なんにする? ブーゲンビリアとか入ったけど」 「なんでもいい。明るい色かな」 「ちょっと待っててね」 アキちゃんは店や仏壇に花を切らさないひとだ。好みも熟知しているので、花の選択を任せてくれることがある。財布をちらつかせる日は実入りも多い週。多少高めでも華やいだものが欲しいのだろう。 「山田さん」 「リボンリボン……もしかして、アキちゃんもこれ須田さんに?」 「家用。それより山田さん」 「ハサミハサミ……あれ、どこだ」 引き出しからスペアのハサミを取りだす。包装紙でくるんだ花を逆手に、おまけでつけたリボンを切ろうとしたときだった。 「山田さん。須田さんのこと好きなら、ちゃんと言ったほうがいいですよ」 静かで控えめな口調だった。動揺した俺が悪い。花の頭はポトリと作業台に落ちた。 「あ」 「……ああ」 何が花屋の若旦那なものか。プロ失格だ。しかし花屋に舞い降りた妖精は俺を責めなかった。 「それももらいます。茶碗に浮かべてレジ横に飾る」 「十円でいいよ。それより急にぶっこんでくるのやめてよ」 冗談のつもりで笑ったのがいけない。アキちゃんはにっこり微笑んだ。「お金とるんだ」 花に囲まれた店先は、一気に氷点下に達した。俺はため息を吐いた。 「じゃあ話聞いてってよ。全部ただでいいから」 丸椅子に座って俺の差し出したお茶を飲みながら、アキちゃんは無駄口を叩かなかった。 「ああいうタイプはね、はっきり言わないと一生気づかないよ」 他人の心に土足で踏み込むようなことはしない子だ。そのストレートな物言いは、アキちゃんの決意を裏づけていた。俺は観念した。 「かなり露骨に言ってるけど、駄目なんだよな」 「担当の先生がそうだった」 アキちゃんは俺に気を使わせないためか、間をあけずに言った。深く聞かれても返答に困ることに助け舟が見えたような気がして、俺はその舟にいそいそと乗った。 「編集者時代の? アキちゃんにもそういう人いたんだ」自分で思った以上の好奇の声に、俺は焦った。「あっ、ごめん。いや、ずっと一人だから、やっぱり気になっちゃってさ」 アキちゃんは首を横にした。 「もっと前に好きだった人はね、独身じゃなかったんだなあ」 穏やかな声音には、アキちゃんに親しい人の空気を感じさせた。俺は思わずいった。「ーー須田さん?」 「あのひとは私が生まれたときから独り身ですよ」 生まれたときは言い過ぎだ。しかし須田さんはああ見えて学生結婚で、アキちゃんが物心をつけるころには奥さんを亡くしていた。俺は該当者が気になった。カヨさんの店には新旧たくさんのお客さんが出入りしていた。次に発した言葉は、気まずい間を埋めるためだけだった。 「ああ……えっ。もしかして、俺?なんちゃって」 「ばか」 アキちゃんはぷいっと横を向いた。俺は彼女がまだ制服だったころを思い出して、相変わらず可愛いなとニヤけた。「はははは。えっ? ええっ!?」 沈没してもおかしくない揺れが俺とアキちゃんの舟を襲った。立ち上がった俺の椅子が後ろに倒れる。店を訪れた常連客のおばさんまで仰け反った。俺は立ち上がって帰ろうとするアキちゃんを無理やり元の椅子に座らせ、接客に集中した。ハサミで落としすぎた葉っぱにおばさんが苦笑するので、手元にあった切り花を数本つけた。おばさんは満足して去った。 舟はもといた海を凪いだ。 「でね、先生の話に戻すけど」 「ごめん。ちょっと衝撃が強すぎて適切な返しが見つからない」 余った一本の花を手元でくるくるやる。俺は少年にでも戻ったような気持ちで、その花をアキちゃんに差し出した。 「いいよ。いま振り向かれても困りますし」 そういいながらも、アキちゃんは俺の花を受け取ってくれた。俺は彼女の顔色をおそるおそる窺った。アキちゃんは最初と変わらず、天使だった。 「ああ、やっぱりそうなんだ。ごめん、気づかなかった。俺のどこが好きだった?」 アキちゃんは背中をうーんと伸ばした。「私が好きなことに気づいてない人が好きなの。だから山田さんはもう遅い」 「そっかあ。残念」 リップサービスではない。本当に残念な気持ちだ。想い想われが一致しなくても、知らなかった感情を受け入れられたらよかったのに、と思う。アキちゃんは自分が傷つくことを恐れるタイプではないが、人を傷つけることには敏感だ。俺が困ることのないように、好意は胸に秘めていたのかもしれない。 俺が須田さんにそうしてきたように。 「先生も、私が好きなことに気づいちゃったのよねぇ」 アキちゃんは俺が渡した花を優しくいじりながら、言葉を紡いだ。ゆらゆらと漂う海の向こう側で、淡く光る花畑の幻を見た気がして、俺は思ったことを口にした。 「よかったじゃん」 「女の人なの」 「ふーん……」 意味に気づくまでに時間がかかった。俺はあっ、と声を洩らした。アキちゃんの花首は下を向いた。 「それで、駄目になった」 「ああ」 感情を知られたくないという心を、臆病だという人もいるだろう。相手に告げることでしか始まらないのだと。いつもは明るい花屋の花も、今日は嘆いている。アキちゃんは知られなくたってよかったのだ。その愛は無償だ。 「山田さん。余計なこと言わないね」 「俺の話聞いてもらうはずだったのに、俺が聞いてるからだよね」 ふたりでクスクスと笑いあう。互いが知らない半生の荒波を越え、日暮れのひとときを味わって語らった。曇りガラスも霧がかる蜃気楼のようだ。 「私ね。シマちゃんにも、告白された」 シマちゃんというのはアキちゃんのところで働く女の子だ。中性的なところがあるのを知っていたので、俺はその事実をすんなり受け入れた。「そっちはなんとなく……えっ。でもシマちゃんも、結婚するよね?」 「もうした。告白はずっと以前の話よ。うちに来たばかりの頃」 「そっか。そのときアキちゃんはなんて応えたの」 俺がそれを言ったら、須田さんはなんと返すのだろう。 「『ありがとう』って」 「……それから?」 「それだけ。先生と同じ答え方をしてしまった」 アキちゃんは花首のオールを下に向けた。萎れた気持ちが俺の心と重なりあう。 「先生にも、ちゃんと告白したの?」 「したよ。でも何事もなかったように、次は仕事仲間に戻ってた」 「それは、ちょっと残酷だなあ」 望んでいる答えが正しいとは限らない。想いと想いが通じあっても、ささいなスレ違いの繰り返しで駄目になる関係もあるだろう。『先生』は賢明な選択を取ったが、アキちゃんの心に添うやり方ではなかったのかもしれない。 「私もそう思う。だからシマちゃんとはあれから話してないけど、いつかちゃんと謝りたい」 アキちゃんは花のオールを作業台に置いた。舟は岸へとたどり着き、俺は嵐の乗り越えかたを知っている彼女に感謝した。 「うん。でもシマちゃんはそういうこと、ちゃんとわかってる子だよ。自分の気持ちを言いたかっただけで。アキちゃんが何か言っても言わなくても、この先もまるごと受けとめてくれるんじゃないかな」 「……うん」 「俺。フリーだよ」 「今は私も須田さん狙ってるからね」 立ち上がるアキちゃんの言葉に俺はえっ、と声をあらげた。アキちゃんは花を俺から受け取り、お代をきちんと置いてくれた。 「女心は秋の空、ってね」曲がり道に向かって手を振る。「ほら、須田さんですよ!おーい!」 「アキちゃん。アキちゃんじゃ勝ち目ないって。ねぇ。アキちゃん、やっぱり俺にしときなよ!」 完 |