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2017/11/28 

 須田さんはテレビが好きだ。地デジ化に遅れをとって、大きな箱と化したそれに食らいつくようにして野球を応援している。ライトファンの俺にはよくわからない地味な地方チームの二軍のチケットを手に入れたり、草野球の応援に駄菓子を持っていくのが趣味だ。
 その日も延長戦終わりでチャンネルを変えようとすると、もう結果も見えている試合にこだわって、リモコンをぶんどられた。
「もう負けだよ。三十分前にわかっていたでしょ。サヨナラが無くても負けてたよ」
「そういうことじゃありません。あのね、負けても勝っても野球というのは、相手チームのヒーローインタビューや監督の次の試合への心意気ってのが重要なんだよ。阪神は八割方負けるとわかってても、あれだけのファンがついてるでしょ? 巨人のファンはよく勝つからだって人もいるけど、負ける日は負けるよ。それだって楽しいんだよ。そういうのも含めての野球だよ」
 俺はため息とボヤキで応えた。本当は裏でやっているボクシングを観たかったのだ。途中で画面の上にテロップが入って、世界戦で十三連勝がダメになった選手の名前が流れていった。「あー……惜しかったな。具志堅さんの記録は誰も敗れないのかな」 須田さんのほうではそう呟いたきり、野球の解説に釘付けだ。
 俺はトイレでひそかに泣いた。判定負けと降参では意味が違うのだ。白いタオルが信頼している誰かの手で投げられるのを仰いだボクサーの気持ちになって、俺は洗面所で顔を洗った。記録は記録だ。でも彼と彼の人生にとっては、その数字はなによりも意味のあることだった。
「うん。ありがとう。いま終わったよーーあれ、山田さん?」
「……なんだよ」
「ごめん。僕なにかしたかな」
 カンのいいやつ。俺はふうとため息をついて、缶ビールを冷蔵庫から取り出した。「別に」
「別にはないでしょ。理由を言ってください。謝るから」
 須田さんはこういうことに関しては人一倍うるさい。俺は説明が面倒なので、「察しの文化って日本独自のものだよな。須田さん得意でしょ。すれ違ってもほっといて」といった。
「ああ。でも山田さん怒ってるよね?」
「怒ってるよ。理由を話せばもっと怒るよ。そして須田さんが『そんなつもりじゃ』とか『悪かった。機嫌なおして』とか言ったって、もう遅いんだよ。そういうのを百回も千回も繰り返した末に、俺のカミさんは出ていったんだよ」
「それに関しては君のほうが先輩だもんね。わかった。もう聞かない」
 須田さんは頭をカリカリと掻いて、リモコンを渡してきた。俺はその腕を引いて立ち膝で彼の進路を阻み、首もとに顔をうずめた。
「仲直りには早いな。今日は俺が上ね」
「え……」
「なんだよ。俺だってそっちがやりたいときあるよ」
「そんな。痛いんでしょ?」
 やったらわかるよ、と縺れこんだが、初めてでは準備もままならず、そう巧くいくはずもなく。新しい性感帯を発見したきりで、その日は終わった。俺は須田さんを許した。

「山田さん。あれから足大丈夫?」
「ごめんね、アキちゃん。この間はーー足はたいしたことないよ。シマちゃんみたく折ったわけじゃないし。それより俺、彼女に謝らないと。今日来てる?」
「うん。少し長めに店開けたいから、昼頃に来てもらう予定だよ。須田さんとおいで」
 アキちゃんの口から須田さんの名前が出ても、俺の頬は思わず弛むばかりだった。何も変わらない。俺はアキちゃんが須田さんと同じくらい好きだ。須田さんも俺と同じくらいアキちゃんを大事に思ってる。名前をつけた感情だけが恋だというのなら、この世は本当に味気ないものになってしまう。
「山田さん。何かいいことあったでしょ」
「ふふん。わかる?」
「いま鼻歌うたってましたよ。須田さんの好きな曲だね……あっ」
 俺はアキちゃんが何か気づいたのかと焦って顔を上げたが、アキちゃんの視線はずっと遠くにあった。
「あの人。お祭りのときに助けてくれたーー」
 ヤクザか。俺はひょい、と店から頭を出した。黒塗りではなくセダンだかスズキだか安上がりの車が一台停まっている。俺はアキちゃんの肩を持って、さりげなく立ち位置を逆転させた。
「アキちゃん。店の奥に入って」
「顔を見られたかも。大丈夫ですよ、悪い人ではなさそうだったし」
 善悪の問題ではないのだ。道をすれ違った人間の中にも殺人犯はいるだろう。俺は花を持ったまま躊躇った。背筋を嫌な汗が流れた。
「いいから早く。内から鍵をかけて。何があっても、絶対出てきちゃ駄目だ」
「でもーー」
「俺に何かあったら、須田さんに連絡して警察を呼んでもらって」
 アキちゃんはそれ以上は逆らわなかった。そんな場合ではないのに、俺は彼女の耳のあたりが赤らんだのを目ざとく追った。そうか、気づかなかった。やはり彼女は須田さんではなく、俺のことが好きだったんだ。そして須田さんも、たぶんそのことを俺より理解している。あの人はそういう人だ。鈍感な俺とは人間の造りが違うのだ。

「あんちゃん。お花ください」
 野太い声の響きに俺は振り返った。白のストールを無造作に垂らした小男が、デニーロもかくやという扮装で立っていた。ご丁寧に火のついていない葉巻をくわえている。こんなに分かりやすいヤクザ、街中じゃすぐに殺されるだろ……と俺は見当違いにも思った。営業スマイルはかろうじて忘れなかった。
「どんなものにします? 予算とかお聞きしとかないと」
「あれ。あんた兄さんじゃねぇなあ。若く見えるね」ヤクザは遠くの舎弟らしき二人組を示した。「うちのがね。さっき店の奥に入った女性と、その連れの男の子に迷惑かけたんで。謝りにきたんですわ。すまんね、商売の邪魔しちゃって」
 俺は内心の動揺を悟られまいと、ヘラッとしまりなく笑った。「ああーーうちの『女房』がとんでもないことをしたと、今朝聞いたばかりなんです。連れの『彼』のほうも大変ご迷惑をおかけしたと反省しておりましてね。花代はタダで結構ですから、何とぞ」
「いや、払います。私もアレもこの通りには二度と現れませんので。出歩いて大丈夫か不安でしょうから、ご挨拶に参った次第です。どうかこれで」ヤクザは懐から引き出したばかりと見える万札の束を出しかけ、ため息を吐いた。「金でまわる世界やと思われてはこちらも心苦しいですけどな、他に切れる身銭もありゃしまへんのや」
 ふはは僕が代わりに代紋を継ぎましょうか、と冗談でもとばしたくなる気楽さだった。俺はポケットのハサミから手を離した。
「あきまへんで」ヤクザは金を肩口まで担ぎなおした。「守る者が後ろにあるときは、武器から手を離しちゃ」
「ーー」
「これは迷惑料やなくて花代です。そこのブーケ可愛いらしいわ。あれひとつ、頂けますやろか」
 俺はレジ横の小さなブーケを袋に入れて、いつもの癖で五百円を返した。ピン札十枚に対して五百円の釣り銭を、ヤクザは大事そうに両手で受け取った。「ありゃ嬉しい。五百円玉貯金してますねん。本棚に収納できるやつあるでしょう?」
「はあ。あれで人でも殴りつけたら、痛そうですよね。重量あるし」
 ヤクザは何がツボにハマったのか爆笑して去った。

「アキちゃん。もういいよ。車も行ったし」
「……山田さん。重ね重ね本当にすみません」
「いいって。足のことは別にアキちゃんのせいじゃないし。それよりどうしよう、このお金」
「うーん。お世話になっているお寺のご住職に引き取ってもらいましょうか。縁起悪いし」
「金は金だよ? アキちゃんも商売始めてわかってきただろうけど、いいも悪いもないんだよ。でもそっか、そだね。須田さんやシマちゃんに聞いても、同じこと言うだろうね」
「シマちゃんのこと、男の子だってーーふふっ」
「あ、ひどいなあ。シマちゃん可哀想だよ。夜だったら俺でも正直間違うよ」
「私、山田さんの女房にいつなったんですか?」アキちゃんは堪えきれないといった風に笑った。「もう知ってますよ。もともと須田さんから相談受けたの私だし。任せて、ガンガン押してみせますからって安請け合いしちゃったけど、結果うまくいったみたいで。よかったですね」
「……そうだったの?」
 俺は呆然として彼女の笑顔を見つめた。アキちゃんは最初に買いに来た花の代金と、ヤクザに返した釣り銭の五百円を支払おうと鞄から財布を出した。俺はいらないよと慌てた。
「それよりこのお金、持って帰ってよ。困るから」
「山田さんがもらってくれたっていいのに」
「やだよ。いらないよ!」
「今日はありがとうございました。それじゃお礼はこれで」
 ちゅ、と頬っぺたにキスをされる。俺はひゃあ!と本気で驚いて、ふふふと笑うアキちゃんの淋しそうな微笑みを目に焼きつけた。
「またね。山田さん」
 それきりだった。俺とアキちゃんの恋の火種は、そこで途絶えた。俺はしばらくその場にたたずんで、彼女とヤクザが歩いて消えた路上を代わる代わる見つめていた。しかし須田さんとのお昼の約束が近づいていることを思い出し、終わった恋には頓着せずに、花の手入れに戻った。




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