【事件簿】


『Crybaby(中編)』



 冷たい風が頬を撫でた。私たちは立地の悪い場所に不安定に建てられた菜食料理店を訪れていた。主人は荷車で運ばれてきた野菜の納品書を確認しつつ、教授の質問に答えた。

「マイクを最後に見たのは昨日の夕方五時半ですね。いたって普通でしたよ。自殺なんぞ奴に限ってはあり得んでしょう。筋金入りのクリスチャンですぜ。十字架さえありゃ三日間飲まず食わずでも、平気で仕事をこなす徹底ぶりで。苦行? まあ端から見りゃ苦行で。奴に言わせりゃ神様が傍にいてくださるだけで幸せだって話でしたよ。仕事中に倒れられたら困るんで食えと言ったんですが、よく忘れていました」

「細い体つきをしていたのはそのせいかね。賄いで肥るということは?」

 主人は荷車から下ろした大量の木箱を路地裏に運ぶよう、コックや下働きに指示した。私たちもついていく。水はけの悪い道で、泥が足にとんだが構っていられなかった。

「アンタもかなり細っこいが、奴は生きてるときから棒っきれみたいでした。うちはコックと下働きのやる仕事は別なんですが、食事は昼どきに全員一緒にとります。その間も奴と来たらスープばかりすすっているんで、体のどこかが悪いんじゃないかと気を揉んだ時期もありまして」

 私はメモを取りながら言った。「詳しい時間帯がよくわかりましたね。クリスマスも近いし書き入れ時だ。なぜ五時半だと?」

「隣の宿屋で客と亭主が揉めていたときに、仲裁に入ってくれたんでさ。おっと、あっちに泊まる気じゃないでしょうね? 料理がひどいからやめといたほうがいい。ドイツ語のわかるのがマイク一人だったせいで、詳しくはわからないが。手荷物がないだのなんだのって騒ぎ出して、路上で殴り合いになりましてね。奴ァ店からほうきを持ち出して二人を引き離し、その場は丸く収まったんですが……」

 教授は隣の建物を見上げた。吹きさらしの風が建物同士の間だから不穏な音を立てている。歪んだ柱だけがポツポツと悪目立ちしていた。

 宿屋はとても流行っているようには見えなかった。それは通りのどの店も同じだが、料理店だけは繁盛している。きっと食事も旨いのだろう。

「客のほうが今度はうちを訪ねてきて、失せ物が見つかったから礼がしたいと、奴を連れていっちまったんです。上がりの時間には早かったんですが、時計を見たら五時をちょっと回ったくらいで。さっきも言ったように奴は酒も呑まなきゃ、食べるほうも粗食ですから――奴の神様だって、たまにはイイコトもなけりゃってんで人を遣わしてくだすったんだと、そう思いまして。ね」

 手を止めた主人のにやけ顔に、私は首を傾げた。教授の咳払いとその後の沈黙で気づき、私は言った。「御礼って――しかしクリスチャンでしょう?」

「特定の女性は居なかったのかどうか、知りませんか」教授は無表情に言った。

「俺の知る限りじゃいませんや。そろそろいいですか。店番がいなくなっちまったんで、新しいのをすぐ雇わないと」

 彼は表口から裏の様子を見ようとしたが、長身の私たちが路地からの目線をさえぎっていたため、困ったように頭を振った。せりだしている宿屋の立て看板にぶつかり、ムッとする。そしてうつむいた。

「怪しい男だったんですかね。顔ははっきり見なかったが……俺が止めてりゃマイクの奴もまだ生きてたかもしれん」

 教授は主人の肩に手を置き、それ以上聞かなかった。

 我々は主人に礼を言って、取り残された。教授は自分のズボンにはねとんだ泥を見ていた。私は言った。

「そのドイツ人らしき男が、ひょっとして被害者を――」

「それは不可能だ」教授はため息をついた。「二人目の遺体が、ドイツ人なのだよ。身元の確認はまだできてないが、川の水を飲んでいるのと、さっきの話で聞いたことによれば、おそらく同一犯による犯行だ。よし、ドイル君。次だ」


***


 宿屋の亭主は愛想よく言った。「ああ! その客なら名簿に名前があるよ。名前はたしか――」

「名簿を見せてもらえるかな」

「それはできんね。おっと、金も要らない」財布を出そうとした私をにらみつけ、亭主は首を横に振った。「あんたら警察の連中ときたら、なんでも金で解決しようって腹だから不愉快きわまりない。昨日の喧嘩がおおごとになったせいで、店の評判はがた落ちだ。俺もたしかに悪かったが」

「私たちは警察ではありません」私は落ち着いて言った。「医者です」

「なんでも構わん。俺の話を聞きたくないのか?」

 教授は私のほうを振り返り、自分のお腹を撫でて一回目をつむった。教授の高い鼻柱で亭主はウィンクには気づかなかったようだったが、しぐさは目ざとく見つけて不審げだった。

 私はサインを理解して胸を張った。「帰りましょう、教授。腹も空いてきたことだし」

「いや、ドイル君。隣の店に戻るなら考えものだ」教授は言った。「あそこは肉がないからな、私はもっと精のつくものが食べたい」

 その言葉で、私の意識は一瞬とんだ。

 精のつくもの。

 そうだった、わざわざ教授に会いに来て、いつの間にか犯罪捜査に夢中になってしまっていたが、当初の目的を忘れるところだった。

 教授は亭主とまた何か話始めたが、残りは耳に入らなかった。

 彼は本日ベーコン一枚しか食べていない。細すぎる腰つきは脇から真っ直ぐ落ちた外套に阻まれて見えなかった。私は彼が少しずつ老齢に近づき、痩せていくにつれ見方を変えていた。

 初めて教授と体の関係を持ったとき、私が望んでいたのは征服される側だった。溢れる情念と制御できない若さから、自分が抱く側に回りたいと思ったこともあったが、教授に対する畏怖と尊敬の気持ちから、それは叶わなかったのだ。

 今夜は無理でも、明日。明日が無理でも、明後日。それまでに教授にも、たっぷり食べてもらわなくては。優しく諭せばお願いも聞いてもらえるだろう。

 いや、嫌がる素振りを見せても実力行使に出られるくらい私が食べておけばいいのだ。精の、つくものを。

「ドイル君」囁きが耳をくすぐって、私は我に返った。「ご亭主が食事を振る舞ってくれるようだ。なに、彼の下腹と脂ぎった額が、彼が菜食主義者でないことを教えてくれた。両手に出来た切り傷と炊事場から香る匂いで、彼自身が料理をすることがわかった。さらに……」

「隣の料理店にはみ出した宿屋の看板が、隣の店に対する対抗心を如実に表していた、ですよね」

 私は教授の乾いた唇から目を外さずに言った。ドクドクとした血流が一点に集中する。殺人事件に関わっている興奮からではない。まだ核心にさえ迫ってない。教授の核心は見たことさえない。

 私は教授の頭を掴み、自分の股間に導いて、核心を貫く熱いものに浸るという妄想を押しのけた。逆だ。事件の真相は私が突きたい。まずは核心の場所を探るのだ。真相以前に教授に遅れをとれば、「君の奥さんになる人は」の部分が、ヤられるほうは思っていたより退屈だから、の意味で使われてしまう。

「料理を誉めましょう。店主の話を聞けば名簿は無理でも、何か手がかりが見つかるはずです」

「ドイル君。名簿のほうも、だ。なぜ顔が赤いのだ?」

 俄然やる気になった私を、不審そうに教授がのぞきこんだが、私は彼を引っ張った。


****


 警視庁に寄った私と教授を、ウォーナー警部の部下が待ち受けていた。若い警部補の名前は覚えていない。「重要参考人の尋問が始まっています。お二人もお連れするようにと」

「――重要参考人?」

 教授の外套と杖を受け取り、私は尋ねた。「瀕死のガードナーを見たという目撃者ですか」

「そっちはすでに証言を終えている。特に怪しい点はなかった」教授がいった。「二人目の犠牲者について何かわかったのかね、ホプキンズ君」

 ガス灯が照らし出す薄暗い廊下を、我々は急ぎ足で目的の部屋に向かった。湿った黴臭い匂いが辺りを漂っている。警部補はうなずいた。

「元ドイツ軍将校のフランツ・バラックです。早期退役してからは世界中を旅していたようですね。マイク・ガードナー氏との関係はまだ掴めていません」

「そっちは今日判明した。死因の謎については疑問が残るが、実は――」

 尋問室の扉がいきなり開いた。続いて小汚ない浮浪児が、大人の手をはね除けて転がり出てきた。「おいらは何もしてねぇ! 俺は知らねぇ!」

 こちらへ向かって全速力で走ってくる。私はとっさの判断で、少年の足元へ教授の杖を投げた。少年は派手な音を立ててずっこけた。

「お見事!」教授の言葉に、少年は顔を上げた。傍らに立つ私と教授を交互に睨みつける。

「――どっちだよ」

「よい大人のほうだ」教授のさし出した手を、少年はパンと叩いた。教授は静かにいった。

「ドイル君に感謝したまえ。証言せずに逃げるなら、犯人だと言っているのと同じだ。君はあの部屋で、自分のしたことしなかったことを、私たちにわかるよう説明しなければならない」

 少年は正しくにらむ相手を変えた。「俺は関係ねぇ。帰らせてくれよ……!」

「帰る家なんてないんだろう」

 若い警部補の放った言葉に、カッとしてつかみかかろうとする。教授は彼の腹を抱えて後ろに回り込み、肘鉄を避けて羽交い締めにした。私の投げた自分の外套でくるむ。罵声を浴びせる少年を抱えて、あっという間に室内へと消えた。

 鍵の閉まる音に、残された警部補と私は呆然と立ちすくんだ。

 お姫さま抱っこ――いや、あれは数には入れられない。私は羨ましさで気が遠のきそうな自分をなだめた。私とて子供の一人や二人は抱えられる。問題は教授が私を抱っこできるか否かということだ。

 私に教授は抱えられるかもしれない。しかし逆は無理だ。よって私があの少年の立場になることは絶対ない。そもそも私を抱き上げられる大男など存在するのだろうか?

 いつか必ず、欧米一の力自慢を見つけようと決意した。そうすればシーツに包まれた裸の自分を抱っこして、などという気味の悪い要求を教授相手にせずにすむというものだ。

「口にしていいこと悪いこともわからぬ大人は、よい大人の数には入りませんよね」

 ホプキンズがぽつりといった。私は心の底からうなずいた。

「そうですね。あれ以上腰を痛められたら、結局泣くのは自分ですしね」

「……え?」

「いやこちらの話です」

 私は教授の杖を拾いあげ、ホプキンズと共に別室で彼を待つことにした。



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