【事件簿】


『Crybaby(前編)』



 遺体安置所の薄暗い灯りがベル教授の鋭い顔を照らしている。濁った溝臭いと、土のついた青白く細い足。

 死体の解剖は済んでいたため、私は邪魔をしないように息をつめていた。遺体は身元不明の若い男で、痩せこけている。

「川の水を大量に飲んだらしき刺殺体が、陸上を歩いて博物館まで歩いて戻ってくるなんて可笑しな話ですよ」

 ウォーナー警部は酷く苛立っていた。

「ただねぇ、ドクター・ベル。無駄足を踏ませたことにならんといいのだが、バケツに汲んだ水で殺そうとして失敗し、そのあと刺し殺すことも可能なわけだ。我々もそれなりに頭を絞って……」

「不可能ではないね」教授は言った。

「ただしそれだと死亡推定時刻がずれてくる。博物館の警備員がこの人を発見した朝には、まだ死後硬直が始まっていなかったのだ。水を被った男が歩いているのを見たという目撃者もいるし、何も断定はできない」

 警部は肩を落とした。ベル教授は励ますように彼の肩を叩いた。

「汲んだ水で殺そうとした点に関しては、私も賛成だ。溺れて死にかけた人間の肺はこんなに小さくはない。身元の確認ができ次第、調べるとしよう」

 教授は死体の周囲を何度も歩き回ったが、やがて諦めたように首を振った。

「やはり情報が少なすぎる。目撃者の証言を直接聞きたい――それからドイル君。せっかく来てもらったが、君は帰れ」

 私はうなずきかけて、手帳とペンを取り落としかけた。「――帰れ?」

「そうだ。早く帰ってヴェルヌの冒険小説でも読んで寝てくれ。私は警部に詳しい状況をもう一度聞かなければ」

「電報を見て飛んできた僕は馬鹿だ。患者を置いてきたんですよ。僕も一緒に証言を……」

「ドイル」

 言い出すとこちらの話を聞かない。私は面白そうな事件の出だしにウズウズしたが、ついにため息を押し殺して扉へ向かった。

 気の毒そうな顔の警部とその部下に一礼して、安置所を後にする。

 深夜の暗闇で辻馬車を拾おうと、無駄な努力に精を出していると、後ろから誰かが追ってきた。私は振り返った。

「僕が必要だから呼んだのでしょう、ドクター」

「残念だがこちらでは必要ない。昨夜の時点で、犯罪捜査の依頼が入ることは予想してなかった。君を呼んだのは――」

 私は言った。「わかってます」

「……検死解剖の結果を聞きたいかね」

 私がうなずくと、教授は不機嫌そうに眉を潜めたまま続けた。

「目やにがついてる。クマが三重。吹き出物は三つ。寝言の名前から察するに、単なる寝不足が理由ではない。現在執筆している登場人物か、過去の記憶の亡霊か、新しい愛人か、そのすべてが原因だ。こっちも楽しい君との時間を台無しにされて頭に来ている――君ときたら違う女の名前を何度も呼ぶものだから、頭に血がのぼって、つい連れてきてしまったのだ。倒れたら事だから今夜は寝てくれ。明日また一緒に――」

 私は唖然とした。寝言に覚えはない。「なんと言っていました? いまのところ愛人は貴方ひとりだが……」

 踵を返そうとする腕を取った。怒った横顔に目線を合わそうと顔を覗きこむが、その度に頭を背けられぐるっと一周してしまう。

 頑として心の中を見せようとしないその様子が、逆に私の心配を誘った。妙な気遣いも彼らしくないのだ。

「教授、あの」

 子供の機嫌を取るようにささやく。 私は唸ってしまった。

 本来なら事件に首を突っ込んだ時点で、今後の仕事の行く末だけが教授の頭の中を占領しているはずなのだ。切り替えができていないのはかなり珍しい。

 彼の場合はあり得ないことと言っていいだろう。

「ドクター。夜が明け次第、部下に証言を取りに行かせますが――おっと失礼」警部は帽子で顔を隠した。「やっぱりドイル先生もご一緒に?」

「いや、彼は帰る」

 私の反応を待たずに教授は警部の背中に手を当てて、そのまま行ってしまった。

 私は結局一人取り残されることとなった。


***


 エディンバラを出てから自分の診療所を開業して、かなりの月日が流れていた。

 苦い記憶も切ない思い出もすべて此所に置いてきたはずだったが、私にも唯一心残りがあった。

 電報は都合よければすぐ来いという簡単なものだったが、都合が悪くても逢いに行った。いつもそうだった。これからもそのはずだ。

 私はご丁寧に机に置かれた本一冊より、寝言の一件が気になって仕方がなかった。

「女の……名前……」

 もう二度と恋などすまいと決意する度に、強い衝動が私を突き動かしていた。家族を作らなければという想いだ。私は裕福ではないにせよ、家族を愛していた。自分もいつかはそうできると信じていたのだ。


 彼は嫉妬などしないと思っていた。


 相変わらずどこか神聖な存在として、学生の目線で彼を見ていた。その感情はベル教授からは一番遠いと思えた。かつて仲違いした人物と張り合ったとき、私がどちらの側につくかということで揉めたことさえ、今日の驚きには敵わなかった。


 彼は私の一番になりたいのだ。


 あの高い声が耳朶に吹き込まれると、声の響きで熱が体中にこもり、背中をぞくぞくした悪寒がはしる。研ぎ澄まされたナイフのような視線が好きだ。なぜわからないのだろう。

 昨夜はとりとめもない話をしているうちに眠ってしまったが、私の熱はただ一人に向けられていた。彼女のことは思い出さなかったのだ。私に見られないよう伏せた顔を思い出すだけで、征服欲が掻き立てられる。

 あの恥じらいを真似たかった。私がやったところで不気味なだけだろうが。


***


 教授が帰って来たのは昼過ぎだった。私はもう二時間待って連絡がなければ、伝言を置いて帰ろうと考えていた。

 彼は私に構わず上着やタイや靴下を脱いでは椅子にかけ、シャツを緩めたところで、昼食を取っている私を振り返った。「まだ居たのかね。君も案外暇なようだ」

「……つれない理由はわかりました。女性の影は無視してください。僕にも人生がある」

「人生がある。なるほど」彼は目をつぶって眉を引き上げた。カフスを取り替える。「結構なことじゃないかね。こっちも残り半世紀の余生で、養蜂でも始めるつもりだ。血なまぐさい世界からは足を洗う」

「食べますか」

「もう一体解剖してきたのに」彼は指でベーコンを摘まんだ。「うん、旨いな。一週間ほど泊まると主人に伝えておいてくれ。私は出かけなければ」

「もう一体? 死体が増えたんですね?」

 立ち上がろうとする私を手振りで押さえ、教授はナプキンで口を拭った。「ドイル君。君はもう一日留守番だ」

 私は怒りに任せてフォークを置いた。立ち上がって彼を睨みつけたが、無遠慮な視線に我慢ならず頬が紅潮した。

 壁際のカビに意識を集中しようとして、失敗する。含み笑いに抗議しようと顔を戻せば、乾いた指が私の頬を包んだ。久しぶりのキスは脂っぽい味で、腰に回された手を握ると相手の唇はすぐに離れた。

「君が悪いのだ。昨夜は早くに寝てしまっただろう」

「疲れていたのと、貴方の声を聞いて安心したので――」

「父親役は疲れた」

「兄と思ったことはあっても……」私はやめた。「教授、僕も行きます」

 困ったように首を傾げる。うなじに置かれた手首を掴み、胸まで下げると目線を落とした。

 どくどくと力強い脈。細さに似合わぬ熱い手。まなじりが濡れて頬が僅かに染まっている。

 こっちもおそらく同じなのだろうが、私は熱い視線を送るのをやめなかった。駆け引きではない感情が、脚の痺れを増やしていく。ぐっと腹を据えて手首に唇をつけると、あっ。と言った。

 何かの聞き間違えか? 鼻息が酷くなる前に解放した。

「ううむ」教授の唸り声は妙に響いた。「――君の奥さんが誰に決まるのであっても、それが自分でないことを神に感謝するよ。男も女もいずれ君の言いなりだ。天性の色仕掛けは必要なとき以外封印しておきたまえ」

「私は、何も」

 口を開けば指で黙れとさとされた。キスをしてきたのは彼のほうだ。理不尽に叱られるようなことはしていない。饒舌に愛を語ったり、色っぽい場所を情熱的に開拓したわけでもない。

 私は椅子に座りこんだ。

 来てもいいという囁きに顔を上げると、教授はすでに着替えを終わらせ帽子を被っていた。本当に道理に合わない人だという思いを私は飲み込んだ。




prev | next


data main top
×