【事件簿】


022)勇往邁進



 ゲームをしようと笑いかける兄は、自分によく似て人を寄せつけない何かがあった。

 シャーロックにとって、兄弟三人で揃った記憶はほとんどないに等しかった。家族は父の方針で欧州全体を旅して暮らしていた。九つ離れたシェリンフォードは弟二人を溺愛していたが、父とはそりが合わずよく家出をした。まだ幼い三男を楽しい冒険へと引っ張り出すことが度々あったのだが、次男のほうは躁鬱気味の長男にはついていけなかった。

 マイクロフトとシャーロックの遊びは、物事を観察して推理する――その一点だけに終始した。どしゃ降りの雨のなか、間借りしている邸の出窓の淵に腰かけ指一本も動かさず退屈していると、兄はよくそのゲームを始めてくれた。

「通りの向こうにたたずんでいる、あの女性を見てごらん。人目もはばからず煙草を吸っているだろう。ひどく怯えている。服は何ヵ月も手持ちの二枚を活用してるだけなのに、髪を少しばかり売って人へのプレゼントを買ったのだ」

「あれが娼婦でしょう。シェリンフォードが教えてくれたの。借り物のかつらに、けばけばしい化粧。でもこの寒いのに穴の空いた手袋はつけずに脇に挟んでる。どうして?」

 小さなシャーロックが答えると、マイクロフトはにやっと笑った。「うまいぞ。そう、まずは見ることだ。あの女性はまだ若いが、宿屋に預けている自分の子供に、これから会うのだということが手持ちの大きな包みからわかる。人形の髪が出ているからな。そして――」

 少年はもう一度ちらと外を見た。ああ、あれは駄目だと呟く。「シャーロック。今日はよそう。こっちへおいで」

 弟は窓に穴でもあくのではないかという目で彼女を見ていた。脇をひょいと持ち上げて床へおろされる。シャーロックは同年代に比べればかなり背が高いが、窓枠にぎりぎり手が届く程度だった。

「手袋のほうは泥に汚れたからだね。人形の髪なんて見えなかったよ。また負けちゃった」

 見上げるほどに身長の伸びた兄は弟の手を握った。シャーロックは途中で中断されたゲームの結果に納得いかず、しばらくふくれていた。マイクロフトはカーテンをきっちり閉め、思案するように腕を組んで頭を振った。

 シャーロックは兄が淹れてくれたミルクとクッキーを食べながら、ひとりになったら椅子の上に立って、またゲームの続きをしようと心を弾ませていた。

 女性は包みを何度も撫でていた。何度も何度も。指は綺麗だったな。手袋は黒くなっていたけど麻だ。女の子は自分くらいだろうか。今夜は母の機嫌がよければ抱っこしてもらおう。一緒に眠るのはもう駄目だろうけど。

「娼婦の意味がわかってるかは怪しいな。マムの結んでくれたタイを弄ってしまうようでは」

 マイクロフトはほとんど無理やり膝の上にシャーロックを乗せて、タイを無造作に結び直した。

「わかってるよ」シャーロックは兄の態度にムッとした。「シェリンフォードは待合室で待ってろってカーテンを閉めたけど、香水の匂いを数えるのに飽きちゃって覗いたから。どちらが大きな声で叫ぶか競争するんだって。子供の遊びと変わらないや。兄さんが負けてたな。股間の水鉄砲で女の人を汚したの。あれは一体どうやるんだろう」

 マイクロフトは物憂げに返事を返した。「そうやって男は毎晩女を殺すのだよ。殺人鬼になりたいかい、シャーロック」

「シェリンフォードは顔を真っ赤にして怒ってた。失敗したら恥ずかしいみたいだから殺人は嫌だ。でも銃を向けられたら僕は立ち向かうよ」

 兄は言い様のない顔で、無邪気な弟を見つめた。歳の離れた末っ子を誰かが教育せねばならないのだが、奔放な長男の悪影響ははかりしれない。マイクロフトは彼を膝からおろした。

「水鉄砲についての呼び方を二十ほど考えなさい。うまい表現ができたら父さんに報告だ。シェリンフォードにも自白する猶予を与えてやらなきゃ」

「焼きたてのソーセージ! だって女の人はすごく美味しいって兄さんのそれを――」

「却下する。さあ次にかかれ」

 マイクロフトは長椅子に横たわり、微動だにしなくなった。弟は自分に興味を失った兄を放っておくことに決めた。こうなると小一時間は戻ってこない。活動的な気質は長男が。憂鬱な気質は次男が。その両方を自分が受け継いでいた。

 シャーロックは足をぶらぶらさせながら、兄を観察し始めた。驚くほど痩せっぽっちだ。神経を過敏にさせる能力のせいで、ろくに食べていないからだった。弟にはその能力というのが何かよくわからなかった。人や物を見て気づいた思いつきを話すのはやめろと、父にきつく言いつけられていたが、それは一般の人にもできることだと考えていたからだ。実際、三兄弟にはそれができた。兄弟の間では、よくできた暗号のように比喩だけが増えていった。

 二人は半時間そのままだったが、マイクロフトは腰を上げて窓辺に立った。女性がまだそこに居ることは、隣に立っていないシャーロックにも、兄の様子で一目瞭然だった。

「マイクロフト……具合が悪いの? そんなに拳を握りしめたら、血が出てしまう。外の女の人が原因なんだね。何かわかったなら僕が話してこようか。シェリンフォードが浮浪児の真似を教えてくれたから、うまくやれると思うよ」

 弟の言葉に、兄は苦笑した。

「父さんは自分で処理したと言えば激怒するだろう。女性のことは女性自身の人生だ。面倒ごとには関わらないのが一番だ」

 シャーロックは兄をにらみつけた。「助けになるなら、関わろう。たしかにこんな雨の日に動くのは面倒だけど、父親の怒りが怖いからやらないなんて――兄さん、幾つなんだい」

 兄は興味深い玩具でも見直すように、弟を見つめた。「来月でようやく十四だよ。でもおまえの言うとおりだな、靴磨きなら立派な成人だ。よし、行こう。シャーロック」

 雨がほとんど霧に変わりかけていたこともあり、兄弟はこっそり家を抜け出した。馬車に牽かれぬよう兄の肩に抱えあげられ、シャーロックは兄の頭にしがみついていた。おかげでマイクロフトの顔はあまり濡れなかった。

 くだんの商売女の前まで来ると、震える女がぎくりと身を縮め、顎をしゃくって包みを胸に抱き込んだ。「そっちは筆下ろしには早すぎるね。坊っちゃん、弟のほうはよそへやんな」

 兄は弟をおろし、静かに応えた。

「よければ一緒に行きましょう、マダム。話せば警察もわかってくれるはずだ」

「け……警察?」女は動揺して後ずさった。「何の、こと」

 シャーロックの目は、人形にしては丸すぎる包みに釘付けだった。雨に濡れた脇から、指の部分が破れた黒い手袋が落ちる。水溜まりに落ちた途端に赤く染まった。垂れ下がる細い金髪を隠そうと女が包みを持ち直し、一瞬落としそうになる。

 マイクロフトが女を抱きしめた。

 包みが地面に落ちることはなかったが、身なりの整った少年の狂った行いに非難の視線が集まる。先を急ぐ大人たちは悪天候に足を止めたが、それも一瞬のことだった。

 間近で見ていたシャーロックだけは気づいた。人形ではない目と目があったからだ。

 すすり泣く女の髪をそっと撫でながら、マイクロフトは彼女の手を取り目的の場所へといざなった。兄は弟に言いつけた。「ここまでだ。家に戻ってろ――聞かれても、なにも言うな。わかったな」

 僕も、といったが強い眼差しに気圧される。シャーロックはうなずいたが、二人の姿が角を曲がるまで見つめ続けた。

 夕食の席では、珍しく無断外出をしている帰りの遅い次男について両親に問い詰められたが、シャーロックは口をかたく閉ざした。しかしシェリンフォードは眉をあげた。

「嘘ならもっとうまくつくんだね。シャーリー。髪が乾ききってない。何度も外を気にして目線は椅子との往復だ。父さんが話した疫病について頬を赤らめたのは、梅毒がどんな仕事のどういった女性にもたらされるものかようやく検討がついたからであり、おそらく今夜マイクロフトが帰らない理由もその関連の――」

 シャーロックはナプキンを置いた。「兄さんが毎週かき鳴らしてるヴァイオリンについて、父さんに聞いてもらわなくちゃ。とってもひどい音なんだ。不協和音の狂想曲が始まるに違いないよ」

 口をつぐんだ長男を、父がどういう意味だと問いつめる。席を外して自室へもどろうとした三男を、母が追いかけた。「マイクロフトはどうしたの。昼は居たのでしょう、シャーロック」

「……今夜は一緒に寝てくれないかな? マァム」

 母は困ったように首を振って、踊り場から怒鳴り声の高まりつつある階下へと去った。もう六歳なのだ。シャーロックはため息をついた。うろうろしたあげく一室のベッドにもぐるが、包みからこちらを見つめる目の幻像にうなされた。寝られない。

 夜半になって馬車の音で完全に目覚めた。窓辺に立つと、刑事に連れられた少年がこちらを見上げた。シャーロックは急いで部屋から出ようとしたが、長男が壁に背をあずけ腕組みをしてこちらを見ていたため、慌てて戻った。

 マイクロフトはしばらくすると弟の部屋を覗き、自室に入った。暗闇でも目が見える特殊な訓練と慌てて脱ぎちらかしたらしきペルシャスリッパのおかげで、弟が起きているのを察した。

「シャーロック」

 マイクロフトは扉をしっかりと閉めて、弟のベッドの脇に腰かけた。「大丈夫か。お漏らししてないか」

「……そんな歳じゃないよ。平気さ!」

「じゃあなぜ兄さんのベッドで寝てるのだ?」

 弟は一度起き上がり非難の目を兄にくれたが、シーツにくるまり背を向けた。マイクロフトはそれ以上追及せず、暗がりで服を着替えた。途中でシェリンフォードがノックなしに室内を覗き、「さっきは悪かった。あれで助け船を出したつもりだったのだ」というささやき声を寄越した。

 二人の兄弟は末弟の反応を待ったが、鼻をすんと鳴らす音が返るのを見て目を合わせた。マイクロフトは去り際に兄が示した通り鍵を閉め、ベッドに入った。小さな背中を撫でると、すすり泣きは大きくなった。

「怖かったな、とても」

 シャーロックは堪えた。マイクロフトは弟を後ろから抱きかかえ、ささやいた。「育てることも、預けることもできずに自分で手をかけてしまったそうだ。捨てられなかった頭以外はテムズ川で発見された。懇意にしてる知人の紳士の力を借りたよ。かろうじて死刑にはならないが実刑だな……」

「紳士って」シャーロックは自分の肩に回された腕を握った。「弁護士のひと……?」

 兄は返事をしなかったが、弟は知っていた。次男にはシェリンフォードとは違う秘密があるのだ。背中に当たる股間が硬くなった。沈黙は肯定の証だった。権力を盾にマイクロフトは弄ばれているのだ。無精な兄が恋をしている事実を認められず、弟はなぜか苛立った。

「拳銃をいさめなくては。さあ、自室に戻るのだ」

「僕は逃げ帰ったりしない。弁護士の人が兄さんにしてたみたいに、楽器を鳴らすみたいにしてよ」

「――おまえには鳴らす側になってほしいんだよ。それにまだ勃たないだろう」

 少年の股間を探った指を止めて、マイクロフトはうめいた。誰かが教育せねばならない。長兄は失敗した。父に任せれば取り返しがつかない。しかし娼婦の言った通り、彼にはまだ早すぎる。理性を総動員しながら長い寝間着の裾をめくった、弟の脚はなまめしかった。兄は興奮している自分に言い訳をした。自分も恐ろしかったのだ。今夜だけだ。

 何をやらせても冷静で物静かな兄が、余裕もなく馬のように背中で駆けている。シャーロックは抱きしめられるままじっとしていた。早まる息切れに心配になったが、振り向こうとした頬に素早く口づけられると全身が熱くなった。自分より大きな指が隆起を探る。

 やわやわと揉みしだかれ、弟はくすぐったさに身をよじった。直に触れられると電流が走った。指を重ね合わせると、マイクロフトは弟のうなじに顔をうずめながら逝った。

 半分外気に出ていた兄の奔流が服の間から脚に当たったとたん、弟も生まれて初めて味わう快感に自分も喘ぎながら痙攣した。空打ちの刺激にぼうっとして、何が起こったのか理解していないようだった。

「漏らしちゃった……」

「兄さんはな。いいからそのまま寝なさい」


 兄弟は折り重なって眠った。


End.


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