【事件簿】


004)君に託す言葉



 揺り起こされるのは初めてではない。静かに抗議の声を上げた。それでもしばらく後には従って、服を着てから音もなく室内をそっと出る。学友の隣の部屋に戻るためだ。

 ホームズは二十に届くか否かの歳だった。大学へ入るまでは集団教育が欠けていたが故に、友人と呼べる者はほとんどいなかった。

 物好きのヴィクター・トレヴァーはブルをけしかけて、いささか変わり者のホームズという男と繋がりをもった。怪我の様子を診るという口実を使い、彼はホームズの気を引いた。学期の終わりごろまでその友情は続いたが、焦れたヴィクターは「夏休みを利用して一ヶ月我が家に来ないか」という申し出をした。

 そちらの方面には鈍感なホームズと違い、ヴィクターは腐っても寄宿舎上がりだったので、いよいよこれで本格的な親友になれると思い込んでしまった。

 誤算はホームズのほうが人との距離を上手にとる点だった。彼らの友情は歳月が流れれば知人と言っても仕方ない程度におさまったが、この件で紹介された父親のほうとの関係は、その時期いっそうおかしなことになってしまった。

 彼がある奇っ怪な事件でその生死を分けるまで――そして息子のほうは疲れ果て、インドの奥地に行ってしまうまで。

「男やもめに何をさせたいのやら、君の真意がわからない」

「諮問探偵になるのだと、こちらからヨークシアの父に手紙を書きましたが……ッ。もう、二度と顔も見たくないと……ぁ」

「私を実験台にしないかね、と確かに言ったが、こういう意味ではなかった」

 野太い指が奥を探るのに合わせ、ホームズは喘いだ。蝋燭に揺れる青い目が、友人の敬愛する父親だという事実を思い出させる。トレヴァー老人は素晴らしい技術を持ち得ているにも関わらず、住み込みの女中にさえ手を出していなかった。

 宝の持ち腐れだとホームズから誘い、滞在の間だけだと約束してから以降は、魔法の杖を振りかざすのに躊躇いも無くしたのだが。

「ヴィクターは君に惚れているらしい」

 ことがすべて終わった後に吐き出された言葉は、さすがに思わぬものだった。ホームズは撫でさする指を逆手に掴んだ。

「まさか。いずれにせよ、彼は私の好みとしては――」首をひとふりして、記憶を凪ぎ払った。「慰めてはくださらないんですか」

「言っただろう。私には娘もいたが、彼女はジフテリアで死んでしまった。もう老人となってしまった後には、一人息子だけが目にいれても痛くないほど愛しいのだ。君の父上と同じようにだ……」

「父は違います」

 ホームズはきっぱりと言った。トレヴァーはその鋭い目に惹きつけられ、何度か彼の名前を祈るように呟いた。

「本心ではない。自分の子供が自ら道を切り開こうとして、嫌がる親などいるだろうか」

「資金は出してくださるようですよ。でもそれっきりでしょう。故郷には二度と戻ることはできません。父が生きている間は」

 二人は議論をやめた。睦言に変えるには時間が遅すぎる。その容貌や世界中を旅してきた経歴の前では、父を思い出さないわけにはいかなかった。夜の闇にぴったり重なっていると、老人でも学友の父親でもなく、やはり一人の男に思えた。

 しかしそれも、彼の肘にあるJAの頭文字を指摘するまでだった。トレヴァーの態度は一変した。魚網を引き上げるときに見たという適当なごまかしが癪に触ったのかとホームズは思い、気にもとめなかった。

 息子のヴィクターにもはっきりそうと知れるほど、トレヴァーはホームズを努めて視野にいれぬよう計らっていた。

「やはり隠し事があるらしいな」ヴィクターは苦笑した。「ねぇ、親父ときたら、昨夜君がやり遂げたあの推理に怯えてるとしか思えない。気を悪くしないでくれよ」

「――そろそろ失礼したほうがいいかな」

「本気じゃないだろうね。嫌だよ、僕は。親の了承などいる歳ではないんだから、友達くらい自分で選ぶさ」

 枝を拾って敷地の芝生に投げる。芝生の庭椅子の周りでは、例のブルが走り回っていた。

 ホームズは昨夜のトレヴァーの言葉が気がかりでならなかった。

 青年が自分に惚れている。怪我を口実に――それが偶然でないことくらいは知っていた――献身的に世話をされた説明も、これでつくだろう。

 ヴィクターを問いつめる計画をいくつか考え、実行に移すのはやめた。およそ初めてできたといっていい友だ。縁を切るには忍びない。

「ここは瞑想に励むには最適なんだ。あっちにも絶景があるよ」

「将来は湖沼地方に家を持てたらと思うね」

「先の長い話だな。きみ、男の友達はいないと言うけど、女の子とはどうなんだい」

 ホームズは肩をすくめた。「誰か紹介してくれるなら、断る理由はない。興味深い存在さ」

 ヴィクターは期待した返答と違うことを示すため、何度か舌打ちした。

「普段僕らは部屋に閉じこもって、一度しか訪れない青春を謳歌している連中からは馬鹿馬鹿しいとしか思えないような公式や哲学に、夢中になってるわけだ。しかしだね。君がラマの禅問答か何かでも会得してない限り、ある女性のボタンの下で弾けそうになっている熱い胸のうちなどは、さすがに無視できまい」

 ホームズは少し考えた。

「……司書のメリッサ?」

「違う。メリッサが好きなの? 年増じゃないか」

「二十八だよ。言いつけるぞ。学内での僕の行動範囲は知っているだろう」

「拳闘場とフェンシング場と科学教室、そして図書室か――もっと近くにいるよ。おかしいな。きみは案外、色恋には鈍感なのか」

 ブルが自分の足元で八の字を描き、興奮するのをヴィクターは悲しげに見守った。「犬でさえ春が過ぎてもこの調子なのに」

「年下なら可愛い子がいるね。ドジスン教授が連れてきた――」

「アリスはまだ十歳にもならないぞ!」

「僕がメリッサの年頃になれば、ちょうどいいだろう。聡明で明るく、人の話をさえぎらない。なにより素直じゃないか」

「君の守備範囲が極端なのは理解した。あっ。親父だ。いいか、喋るんじゃない。僕が仲を取り持ってやるから」

「友情に親は関係ないんじゃなかったのかい」

「女の子の話だよ……やあパパ! とってもいい天気だね」

 トレヴァー老は今にも涙をこぼしそうな空を見上げて、首を降った。

「雨が気になるから屋敷へ入れと言いに来たのだ。邪魔をしたなら、すまなかった」

 女中に任せればいいものを、と見れば彼女は眼をそらし、慌ててシーツを取り込んでいる。ヴィクターはなんの疑問も持たずに、犬を後ろから抱き抱えて先を急いだ。ホームズはすれ違い様にトレヴァーと目を合わせた。意思の確認はそれだけだった。

 昼食は三人でとった。ヴィクターは初日の二人を気遣うように陽気に話をしていたが、欠伸をしつつしばらく休むと自室に戻った。ホームズは睡眠薬の存在に気づいた。

「……書斎は人が来る。図書室はどうかね」

 片脚を上げるんだ、舐めるんだ、自慰をするんだと要求される度に従った。薄暗い室内で湿っぽい本の匂いを嗅ぎ、下だけ脱がされ机の上で相手の口内を犯していると、ふとひとつの疑問が脳裏をよぎった。

「挿入るときはどんな感じですか、サー」

「君のように多才な若者でも、まだ知らない世界があるわけだ」

「気持ちいいんでしょうね。すごくよさそうだ。口は温かく柔らかいが、道具は冷たく硬いものだし」

 脚ではざらつくから満足できないか、と膝で擦られる。ホームズは布地の感覚に眉間を寄せたが、好奇心は抑えられなかった。

「かなり幼いころに、したような覚えがなくもないんですが。必要のない記憶は忘れてしまいました」

 母親か? と聞かれて反射的に脚を閉じる。トレヴァーは慌てなかったが、灰色の目に鋭く息を呑んだ。

「悪かった。忘れなさい。いいね」

「たとえ貴方でも――」

 ホームズ君、と吹き込まれた声に震える拳を開いた。

「本当にすまない。詫びて済むような話ではないが……」

「――脚で。してくださるんでしょう?」

 もう大方の素性は察しがついていたが、人のいい地方判事の皮をかぶった新しい愛人の脚が、太くたくましく自身を搾り始めればすべては遠ざかった。トレヴァーのほうでも、若さに満ちた肉体を股に挟んでいると、どうにかしてその冷静な顔を崩したい欲望にかられた。

「んぁ……っ。んっ……んっ!」

「衰える前に来てくれれば、臀なり腕なり貸せたのだが」

「う……で……?」

 ああ泣くなということか、と拭ってみたが、何も出なかった。泣き方こそ覚えておくべきだったのだが。神経過敏な女のように、逐一他愛ないことで激情にかられていれば、どれほど楽なことだろう。

 始末をすませて老人が先に出た。自分の父親は彼ほど老いてはいない。ホームズは激高しているであろう父という名の故郷の恋人を思いだし、昨年亡くなった母親に心の中で謝った。

 図書室の扉を考えもせず開ける。後悔の足音は、人影を目の端に入れた直後に訪れた。「――待て!」

 いつから聞いていたのか。踵を返して逃げようとする相手を、角で抑え込んだ。壁に叩きつけると、それがこの家の若い女中だということに気づいた。

 彼女の肌は首まで林檎のように真っ赤に染まり、ホームズの叱責を受けるのを恐れて横を向いた。

「み、見てません。わたしは……あの、声も、くぐもっていて、はっきりとは」

「聞きたいことはひとつさ。ヴィクターに言うのか?」

 女中は首を振った。「神かけて坊っちゃんには」

 ホームズは両手で頬を包み込むようにして、彼女の熟れた唇を奪った。ほんの短い時間の戯れだったが、女中は後ろから手に巻きつけたスカートの端で脚の間を押さえつけている。

 ホームズは気の毒に思ったが、女中の名前が母親と同じであることをそっと告げた。女中は一瞬首を傾げ、理解した上で次のように言った。

「わたしはこの屋敷に奉公してきてから、ずっと旦那さま一筋できました。今の口づけですべて忘れることができます」

「――僕の観察力は色恋の面でも正常に発揮されたらしい。もし君が僕の友人に君が見たことを話すと即答したら、クローゼットの天板裏に隠し持っているトレヴァー老のカフスボタンについて、さらに問いつめるつもりだった」

「どうして……」

 女中は呆然としたが、ホームズの冷たい眼差しを見ても、すぐに立ち直った。気丈さと直感力は女の特権だ。

 ホームズは彼女と別れ、例のごたごたが起きて屋敷を後にしてからも、そしてトレヴァー老が不幸にも悶死した経緯を自分の相棒に語ったのちにも、そのことをよく思い出した。

「ホームズ君。君には隠しだてできない」ヴィクターは遺書の解読をホームズに頼んだ。「読んでくれ」

 最初の数行は読み飛ばした。それは読み手がホームズである場合にだけ読めるようになっており――ホームズの父親の名前が暗号の鍵だった――、息子のいく末を案じて、女中のヴァイオレットを伴侶によその国へ行くよう彼を説得すること。世界初の諮問探偵として名前を遺すことを、ホームズ自身に約束させるものだった。

 結論からいえば、前者は実現しなかった。ヴィクターが彼の父親の言うとおり、ホームズに魅了されていた事実もあるだろう。ヴァイオレットには知人の屋敷を紹介し、そこの老執事と結婚したという風の噂を耳にした。

 トレヴァー老が逃亡後のベドーズと関係していたことは今や明白である。ホームズにはそれがわかった。二重の脅しをかけてきたハドスンと、それ以上の関係であったかどうかは知らない。

 もちろん肝心の事情は伏せていたが、そうすると物語のほうは推理としては無味乾燥であった。しかし相棒は熱心にメモをとった。ワトスン、と昔語りをしながらホームズが言った。


「立派な、たくましい老人だった。趣味でしかなかったことを、職業として考えるまでにしてくれたのだ。君の収集に役立つなら、自由に利用してくれて構わないよ」


End.


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