【事件簿】


079)時には激しい接吻を



 見渡す限りの高原が、故郷では考えられないほどの日に照らされている。

 シャーロックは従兄弟に急き立てられて登った木の上から、家のある方角を見た。乾いた風が心地よくシャツの中まで行き渡る。隣の木にある規則的な穴を持つ蜂の巣に見入った。少年には身近な栄養源だった。少し走ると息を切らす幼い体に、蜂の子や蜂蜜はよく効いたのだ。

 血は争えないもので、芸術的な感性の発達は耳以外にも及んでいた。蜂の羽音や穴の数を数えると、蜜の奥に潜む微生物に今度は気をとられた。


 ――あの中はどうなっているのだろう。


 穏やかな陽気に暖められた空気が肉体を包むと、少年はほっと息をついた。従兄弟の声が遠ざかる。そしてそのまま眠ってしまった。

「落ちるぞ――」

 従兄弟はいつの間にか姿を消して、下を見ればお茶の時間を伝えにきた上の兄が、呆れたように笑っていた。

 シャーロックはゆっくりと木の幹を滑り降りた。めくれ上がったシャツの葉っぱを叩かれ、子供扱いに抗議の視線を向けると、たまには世話をさせろと頭をもみくしゃにされてしまう。

「鹿撃ち帽はどうした?」

「森で無くしたんだ」

「似合っていたのに」

「……明日探すよ。ごめんなさい」

「また買ってやるさ」

 シェリンフォードにとっては最後の家族旅行だった。大学をどこするかは家族の揉め事の一つであったが、それに関しては彼も反抗しなかった。本気でかかればオックス・ブリッジ両方でも可能だとシャーロックは思った。

 兄の端整な横顔は、きらきらした光に彩られていた。

「置いていかれた」

「おまえが自由すぎる」

「登れといったのはセドリックだ」

「あの高さじゃ登れないと思ったんだろう。その細腕じゃ俺でも疑うね」

「シェリンフォードがボクシングを教えてよ」

 それが不可能であることは、お互いわかっていた。二つ差のマイクロフトには長男と過ごす時間がたくさんあったが、シャーロックにはそれがなかった。

「拳闘なら親父の分野だな」

「父さんは僕には興味などないさ」弟は沈んだ。「最近じゃ目も合わせてくれないんだ」

「俺やマイキーがいなくなったら可愛がってくれるよ」

 それは確信に満ちたものだった。シェリンフォードは沸き上がる感情を笑顔の下に隠した。父が家には寄りつかず、特にシャーロックに対して距離をとっている理由を知っていたからだ。

 できれば自分が弟を引き取ってやりたい。マイクロフトの性癖は天性のものだったが、シャーロックにはまだ望みをかけていた。

 せめて次男が弟の気持ちを受けとめてくれれば、どれほど安心するだろう。父の毒牙にかかるより、よほどまともな日々が送れるはずだ。しかし彼には良識がありすぎた。

 二年経てば呼び寄せることも可能かもしれない。音楽家への道を捨てる気はなかった。金を作るのが先だと、シェリンフォードは瞬時に思考を閉じた。

「屋敷に帰ったら二重奏をしよう。防音設備に驚くぞ。頼めば伯母さんがピアノを弾いてくれる」

「ヴァイオリンじゃセドリックには敵わない。そのくらい僕にもわかってる」

「指の練習を嫌がるからだ。負けない耳を持ってるくせに、おまえがそっちの方面を磨こうとしないからじゃないか」

 シャーロックは指を何度か開いて閉じた。「練習が嫌いなわけじゃないんだ。そりゃ指も肩も痛くなるけど、決して嫌なわけじゃないんだ。ただ、失敗するとものすごく苛々するんだ」

 シェリンフォードは同意のため息を鼻から吐いた。聴覚が発達しているのは確かにいいことばかりでもない。聴きたくない音も敏感に拾ってしまうからだ。そして上の従兄弟には少々問題があった。

「いじめられるのか」

「相手にしないようにしてるよ」

「やりこめるよりマシだな」

「マイクロフトがそうしろっていうから。自分で気づかないとどうしようもないって。特に兄弟の上のほうだと、すぐ下に威張り散らすから、ああなるんだって」

 長男はなぜか落ち込んだ。「ああ。マイクロフトがね。うん。シャーロック……お兄ちゃんは何人いるのかな」

「シャーリーとか言わない人なら何人でも」

「その点に関しては、こっちの身にもなって考えてくれないか。名前のせいでからかわれた回数じゃ俺が一等賞で間違いない」

 兄弟は揃って芝生に寝転んだ。

 丘を二つ越えた先が家だが、お茶の時間はとっくに過ぎてる。間に合ったとしても、おとなしくしていられる二人ではなかった。

 シャーロックは木の上でたっぷり昼寝をしたので眠くなかったが、兄のほうはそうはいかなかった。しばらくうとうとと目を瞑って、次に目を開ければ夕陽が落ちかけている。


 ――気づけば弟はいなかった。


「シャーロック?」

 人の気配さえ消えている。故郷の国とは違う、乾燥した空気を吸い込んだ。

 弟のいた痕跡を改めて探るが、どこにもない。兄弟の遊びのひとつが、足跡を残さないで決めた目的地まで渡るというものだった。隣に寝ている兄を起こさないで姿を消すというのは、さぞ面白かったに違いない。兄は苦笑した。

 先に家に戻ったのだと家に引き返しかけたが、首筋にぴりっとしたものを感じて、シェリンフォードは振り返った。

 視線の先には薄暗い森しかなかった。

 来た道を見下ろすと、遮るもののない向こうから、黒い雲が少しずつ押し寄せてくるのが見えた。

 彼はしばらく、その場に静かにたたずんでいた。嫌がられたあだ名で弟の名前を何度も叫ぶが、返事はない。

 野犬に襲われている想像を振り払い、森へと足を運んだ。家に戻って応援を呼ぶのが賢い選択だということはわかっている。上の弟なら間違いなくそうするだろう。大勢で探すべきだ。

 シェリンフォードは枝を折りながら進んだ。あまりに奥まで進めば、帰り道がわからなくなる。

 名前はもう呼ばなかった。気配を消して、息を殺して先へと進む。足元を得体の知れない生き物が通るのを避け、慎重に足を運んだ。暴漢に襲われている可能性を考えたからだ。

 弟は決して見目の整った美しい少年というわけではなかったが、なぜか人目を惹いた。痩せすぎているために、頭の大きさと鼻とが特別目立つのだ。兄弟の中ではシェリンフォードだけが特別に容姿に恵まれていたので、その種の劣等感は体格の悩みがつきないマイクロフトが、すべて受けとめていた。

 空気の綺麗な土地を転々としているとはいえ、まだ体力も完全に回復していないのだ。遺伝的な神経症に加え、シャーロックだけは特別気を配ってやらなければいけなかった。隣に居たのだ。自分の責任だ。

 半ヤードも歩いたころには、日がほとんど落ちて更に暗くなった。動けるうちに捜すしかない。兄弟たちは田舎暮らしの強みで視力がよかった。暗闇での捜しもの当てを頻繁にやったので、まったく見えないというわけではなかった。

 親父と伯父貴が揃って捜索に来るだろう。弟なら家にいるぞと呆れられることを祈った。勘のよさを過信しすぎて、判断を誤ったこともある。しかしどう考えても弟が自分に黙って姿を消すようなことは考えられなかった。

 浅瀬を流れる水音が、近くに聴こえる。聞き覚えのある咳が続いた。シェリンフォードは走った。

「シャーロック!」

 返事がない。茂みの先に帽子のようなものがある。さすがにほとんど見えない。細枝で頬を切り、イバラに腕を取られたが構わなかった。

 川に流されたのではという心配をよそに、シャーロックは岩に座りこんで胸を押さえていた。シェリンフォードは片腕で弟を肩に抱きかかえ、帽子を取って平地に横たえた。落ちている大量の煙草は靴で何度も踏みつけた。

「兄さん。腕から、血が出て」咳さえ出せずに、痛みに喘いだ。

「この馬鹿。どうして――」

「指、も」

「喋るな。いいな!」

 強い目で言葉をさえぎる。紫がかっていた視界は、すでに真っ暗闇に近い。じきに鼻の先も見えなくなるのだ。それでも母親ゆずりの青い目が、シャーロックにははっきりとわかった。

「いいな」

「はい」

 それきりだった。

 兄はしばらくすると弟を背中にかかえて、歩き出した。シャーロックの胸はしだいに落ち着き、話せるほどになった。

「風に飛ばされた方角を計測したんだ。木の上からだと森の広さもわかりそうだったから言われたとおり登った。それに川の傾斜も。そこに兄さんが――すぐ取ってこれると思って――」

「そんなことを聞いているんじゃない」

 シャーロックは息をつめた。本気で怒っているときは兄も口数が少なくなるのだ。

「明日じゃ猿か野うさぎに持っていかれるから」

「また買ってやると言っただろう。俺が約束を破る男に見えるか?」

 シャーロックは言った。「しばらく会えないんでしょう。オックスフォードの推薦は蹴って、音楽院に入るつもりだ。ケンブリッジは受けてさえいない」

 兄は黙っていた。

「僕のところに来たのは、伯母さんに報告している母さんの声を拾ったからだ。封も切らない大学からの手紙が鞄の奥に入ったままで、ヴァイオリンケースの裏に取ってある音楽院からの手紙は手垢でいっぱいなのはおかしい」

「……マイクロフトか?」

「たぶん僕より早くに気づいてる。彼にはそんなもの、必要ないよ。情報がなくても様子でわかるんだ。シェリンフォードが歓楽街でヴァイオリンの練習をしていたことも昔から知ってた」

 シェリンフォードはため息をついた。弟たちには秘密を持てない。

「おろしてよ。雑菌が入らないように止血だけでもさせて」

「日が暮れるとまずい」

「道はわかるんだ。歩けなくなったのは、やわな気管支のせいだ」

 兄は無視した。

「――シェリンフォード」

 なんだ、と声が返った。

「僕はひとりで大丈夫だ」

 返事を待たずに続けた。「……マイクロフトもあと何年かはいるし、母さんも、父さんだって」

「そんなことを聞きたいんじゃない!」

 声を荒らげて背中から振り落とし、胸にかかえ直す。一度落ち着くと何事もなかったかのように話す口ぶりが、シェリンフォードの感情を逆撫でした。

「いいか。四年待ったら、俺のところに来い。本当は今すぐ連れていってやりたいが、都会の空気に耐えられるとは思えない。マイクロフトと離れたくないだろう」兄は弟のポケットを探った。「煙草は捨てろ。遠くに行くときは誰かに声をかけろ」

「肺が強くなるから、たくさん吸えって」

「医者の言うことは半分以上デタラメだ。半世紀もしたら、煙草で人が死ぬと言い出す。排気で汚染された空気を棚にあげてな」

「一瞬楽になるんだ。本当だよ。でも、もっと簡単に肺が強くなる方法も知ってる。人が必要なんだ」

 初耳だった。兄はシャーロックの顔をのぞきこんだ。「やってやるから教えろ。そっちのほうがいいに決まってる」

「――シェリンフォードにはできないよ」

 兄は苛立って顔をそむけた。

「ああそうだな。では、早く帰ってマイクロフトにやってもらうとしよう」

 指がのびてきた理由に気づかず、頭を抱き込むようにされてもシェリンフォードにはわからなかった。たくさんの女に愛されてきた形のよい唇は、弟に深々と奪われた。

「……っ」

 帽子を取り落とす。剥がそうとした片手をまだ小さい指で握られ、切実な眼差しに観念して目を閉じた。貪欲に呼吸を奪おうと吸ってくる唇を受け入れる。

 歯列を分けた舌を差し込まれるにいたっては少し躊躇ったが、ふん、ふん、と顔を赤くしながら賢明に鼻で息をする様が可愛かったので、立ち止まったまま相手をしてやることに決めた。

 口内を舌先でなぞる。息継ぎの合図は、握りあった手をそのままに親指だけで甲をさすった。胸が何度も上下するのに危機を感じて離れかけるが、夢中で追われてまた戻る。

 次第に気分以外の場所も盛り上がってきた。だがそちらは知らないふりをした。治療なら仕方ない。もちろんそれ以外の目的はない。

 弟が急に暴れたので、解放した。

「んぁっ。なに……」

 無意識に胸の突起を服の上から弄ってしまった。シェリンフォードは女好きを装ってきた自分の血にも、確実に流れている面を自覚した。このぶんでは呼び寄せるほうがお互いの体に毒かもしれない。

「マイキーはキスがうまいんだな。知らなかった」つい口をすべらせた。

 弟はぎょっとしたが、シェリンフォードが気づいていたことに妙に安堵したらしく、襟首につかまりなおした。息はもう落ち着いていた。

「マイクロフトとはやったことない」

「――ちょっと待て。いまのは誰が教えてくれたんだ?」

「主治医のドクター」

 シェリンフォードは押し黙った。やがてランタンの明かりがいくつも見え、二人を捜しにきた何人もの大人の中に医者を見つけると、兄は眠ってしまったシャーロックを天敵の父に預け、無言で左ストレートを放った。

 医者は全治二週間、シェリンフォードは命の次に大事な指をそのときも痛め、音楽院ではなくオックスフォードに通う羽目になった。


End.



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