【事件簿】


056)蜜のように甘い罠



 相談事と称して医学部を訪れ、例の小部屋、教授の特別殺人講義を受けたあの部屋で待っていた。

 私は教授が来るまでおとなしく、解剖机の端に背中を当て自分の帽子を回していた。教授の講義はたいてい時間ぴったりに終わるが、質問を受けたり仕事が立て込んでいたら私を相手にはすることはなかなかできないだろう。

 頭ではわかっていたが、独占欲が指先までしびれさす。若い男や、ときには女の影が怖い。もうかなり前から、将来家庭を持ちたい話はしていたし、この関係も互いの電報が手違いか何かでほんの一度届かなければ、すぐに終わるものなのは予測できた。


 私は――彼は。


「別れ話かね、ドイル君」教授は扉を開けるなりそう言った。「深刻そうな顔だ。どうした」

 まくりあげ始めたシャツブラウスと、手に取ったエプロンに落胆した。やはりすぐ手術、あるいは次の講義についての事前準備があるのだ。

 彼は背を向けていたが、私があまり静かだからだろう。つけようとした手袋をバケツに入れて、ちら、とこっちを見た。

「十五分だ。二つ隣の部屋が空いているから先に行ってくれ」

 黙ってうなずいた。帽子を無造作に持ち、入り口に立てかけた杖も忘れず取った。すぐ帰るのだから、と。

 二つ隣は空き部屋になっていた。ほぼすべての窓に暗幕がかけられ薄暗い。教授はすぐに来て、後ろ手に扉に鍵を差し込んだ。私は聞いた。「……何をしているんです」

「口実を作るならもっとうまくやりたまえ。欲望に満ちて全身から甘い薫りを漂わす扇情的な愛人を、そのまま還す馬鹿がいるか」

「たいていの男は僕よりひ弱です」

 私はドクドクと心拍数をあげる胸を押さえた。磨りガラスの向こうでは、昼はとうに過ぎたとはいえたまに人が通るのだ。時間はないと言った通り、エプロンと新しい手袋をつけている。教授は私の手に手を絡め、淑女にでもするように鋭い眼光を離さず指先に口づけた。その動きはゆるやかで、私はぞくぞくとした感覚と焦りを一度に味わうはめになった。

「そうだな。私もだ」

「教授は……違います」

 どう違う、と置き去りにされた木の椅子に座らされる。私は外が気になり、時間も気になり、胸ポケットの懐中時計を掴もうとして失敗した。教授がピシッと手を払ったからだ。

「僕はあなたの言いなりです。ご存知でしょう。反抗するときだって、逆になって組みしくときだって、いつだってあなたに支配されているのだ。あなたの灰色の目と、細く神経質な指と、ときには甲高く叱責を受けるその声があれば、僕は」

 教授は床に膝をつこうとしたので、私は慌てた。彼は脚が悪い。じっとしてろと言わんばかりににらまれる。脚の間を割って入り、椅子に座る私の耳たぶにキスをした。

「私を信頼しているな」

 私は憤怒から赤くなった。「僕があなたに捧げられるものはそれだけです」

 教授は椅子の脇に垂れ下がったベルトで、私の太ももと両手首を締めた。これは暴れる患者を拘束し、短時間で検査を終えるために研究開発したものだ。自分でははずすことができない。

「教授、何を」

 彼は無言で、ポケットから取り出した小瓶を開けた。素早く口に含み、私の顎を乱暴に掴む。流し込まれた液体が喉を通る熱い感じより、久しぶりの教授の舌を追って私は目いっぱい首を伸ばした。

 私は息を切らしたが、教授は慌てることなく唇を離す。青白い顔から透けて見える血管の色で、彼の顔は染まった。更に先をねだったが、行かなくてはとつれない。

「いま飲ませたのは……」

「君が私に期待しているものだ」

 教授はそう言うと立ち上がり、私を椅子ごと部屋の端まで引きずった。天井から垂れ下がった暗幕を下ろし、私を廊下の窓から見えないようにする。

「教授。もう一度、キスを」

 彼は私の懐中時計を許可なく取りだし、小机に開いて置いた。「時間切れだ。一時間でもどる」

 それほど長い時間でもなかったが、日が暮れて夕陽が暗幕の隙間から部屋を照らし始めると、私のフラストレーションは限界を越えた。縛られた手首の与える僅かな痛みと、擦れる服の布地が隆起を押し上げる。私は徐々に沸き上がるもどかしさを太ももで挟み込み押さえつけたが、充足感どころか事態はさらに悪化した。

 意識を逸らそうと懐中時計を見る。まだ五分、十分、と数える自分を叱咤して、あと五十分、あと四十分、と数え直した。

 これまで待った時間のことを思えば、たいしたことはない。私は教授に期待している何かが、体の繋がりだけではないことを示したかった。父の形見の時計が、私を嘲るようにカチカチと音を刻んでいる。


 ドイル家の――恥め。


「……っ!」

 教授は父ではない。それでも私の不足感を補ってくれているのは事実だ。不在にしてしまった存在の穴を、教授が埋めてくれるだけで、私は安らかな眠りにつけた。

 彼は私の倒錯した面を理解してくれている。理屈ではなく、直感で。だから私は従うのだ。

「っ……ん」

 滴りが渇いた喉を潤した。いつの間に時間が過ぎていたのか解放され、床に寝かされ水を飲まされたようだ。私は首筋をつかみ、教授、と呼んだ。彼は答えずに私の中心を引きずり出した。

「ゃっ……あぁ……っ」

 自堕落な感性が忘れていた愛撫で呼び覚まされ、薬の効果も相まってか、私は息もできなくなるほどの快感に身をゆだねた。尿意に似た圧迫感に我慢しようとしたが、無理だった。漏らせ、と竿の裏側を強く握られ、私は放った。勢いはない。耳朶を打つ響きが異様だ。

「……っっ!」

 私は懇願した。教授のものが欲しい。突き上げる質量に身を任せ、深みで痛みを忘れながらいつまでも浸っていたいと。声は嗄れていたが思ったより大きく、外を気にする余裕などなかった。教授は私の声をさえぎるように口づけた。もう手術着でもない。

 望みは叶えられた。

 ひと突きされただけで私は出した。それでおさまるはずだった。触られてもいないのにまた勃ち上がる。教授は呆れたように唸った。

「少しは堪えなさい」

「ん……! ぁ……」

 恥ずかしさから腕で自分を守ろうと無駄な抵抗を試みた。教授の顔を何度か間違って叩いてしまう。彼は眉をひそめたが、私を裏返して更に突いた。あまりの感覚に指がさ迷う。抱きしめる相手がいないというだけで、後ろからの責めは不安を誘うのだ。

「もっ……と! 教授、教授」

「ドイル、声を抑えて」

 無理難題ばかりだ。密室殺人の推理のほうが簡単だ。

 なんとか要求を伝えることはできたが、内部を擦りあげる怒張のほうは難しいようだった。彼が休憩を入れようと腹筋に力を込めて深呼吸を繰り返しているのが背中越しに伝わってくる。その間も、私の腰は新たな刺激を求めて教授を揺すってしまう。

「いや……ぁ。いい、いっ……!」

「……っ」

 喘ぎが大きくなれば二人して破滅だ。教授が後ろから布を噛ませたので、それが何かもわからずに噛んだ。獣のように後ろから引っ張られ、背中が反り返る。いななくように首を伸ばした。

「……………っ! ……!」

 これは……まずい。沼地に沈むように下半身が崩れた。それでもおさまらない突きに尻を高くあげる。教授が背中を抱き止めた。胡座をかいた上でまた。

 私の名前を吹き込みながら、何度も抜き差しを繰り返した。どちらも髪が滅茶苦茶だ。汗も肌の火照りも交換しつつ、たとえ終わりが待っていようとひとつになりたくて彼に応えた。

 いつどのように終わったのか記憶がとんで、定かでない。日は完全に暮れていたし、それまで誰も来なかった。私は非難をこめて、教授を見た。涼しい顔で椅子に座り、煙草を吸っている。

「言いなりだといったでしょう。拘束具や薬などなくても、僕は逃げません」

 教授は私の口に煙草を押し込み、一口吸うと、自分の口にもどした。

「ああ――だが精力増強剤だとは誰もいってない。患者の承諾も得ずにそんなものを与えたら、私の医師免許は即剥奪だ」

 私はえっと彼を見た。信頼しているかと尋ねただろう、と唇が動く。


「ただのビタミン剤で君を支配できるなら、安いものだと思っているよ。さて、ドイル君。第二戦は家でやろう」


End.


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