【企画】


『Who am I ? (後編)』


 【5】

 彼は、私が拒絶を示し始めてからも毎日ベイカー街にやってきた。

 ベッドにいるのに飽きて、杖を片手に外を徘徊しようとすると酷く怒る。頭の傷が癒えるまではじっとしとけと言うのだ。最初の三週間は言うことを聞いていたが、やがて限界がきた私は例の本を壁に投げつけた。

「もう充分だ。スイスでも一日中寝ていたからな!」

「駄目です」

「顔を突き合わせるのは懲り懲りしてる。出て行け」

「駄目だ。言うことを聞いてくれ」

 苦しそうにすがめた目に、こめかみが痛くなった。やはりこの男を知っている気がする。

「君がワトスンじゃないのか」

「違う。ワトスンなんて男はいない」

 どういう意味だと問い詰める。男は包帯を換えると言ったが、私は彼の手首を握った。「ワトスン」

「私はドクター・ワトスンではありません。離してください」

「――君は僕を知っているのだろう。だから毎日ここに」

「ミスター・ホームズ。君を知らない英国人がいないだけだ」

 おとなしく引き下がって見せたが、聞き逃さなかった。彼がフランス人であることは名前により明白だった。しかし彼はこの国の人間だと言う。そして、私を知っているのは小説で読んだからではないだろう。

 ワトスンと呟くが、彼は私の視線を避けながら仕事に集中した。傷を診る手際がいい。記憶中枢について詳しくなくても、彼が医者として優れていることは間違いなかった。

「また明日来てくれるね」

「もう――来ない」

 苛立って襟首を掴んだ。どうしてなんだ、僕を見捨てるのか、そんなことは許さない、どこにも君をやらないと口走る。

 頭が割れるように痛む。お願いだ、と抱き寄せた。

「そんな目で見るな」

「……!」

「君が誰でもいい。ワトスンでなくても。だから明日も来ると言ってくれ」

 硬直した身体が離れようとして、一瞬揺れる。自分が何をしているかよく理解できなかった。

 頭痛を紛らわすためなのか、たじろいだ彼を離すまいとしたせいなのか。顔をわしづかみにして唇を合わせる。爪が私の甲を引っ掻いた。満足に立てないせいで高い位置にある頭に腕をやり、胸に抱くようにしてベッドへ倒す。

 夢中でキスをした。

 唇を首筋に這わせるとアアという声が耳朶を掠めた。滾ったものが急速に駆けあがる。欲しいと思った。

 相手が男でもだ。股間を擦りつけるとんっと顔を逸らした。

「ドクター、名前は」

「私、は」

「君の名前だよ、ショルメス」

「――エル、ロック」

 低い声でかろうじて聞き取れる音を発した。名前があるなら彼はやはりワトスンではないのだろう。エルロック・ショルメス。いい名前だ。ジョンなんとかより――ずっと。

「頭、が」

 痛い。我慢できぬほどに。

 肩の上に額を乗せると、彼はとても慌てた。

「ああ、それは。つまり」

「ドクター――痛い」

「大丈夫だ。僕がついている」

 この僕が、と彼は言った。

 耳鳴りと目眩で一瞬視界が点滅する。目の前にある顔がたくさんの人間に見えた。


 知っているはずの人間の顔に。

 これまで人生で出会ってきた。

 すべての依頼人の顔に。

 肝心の顔にはならない。

 求める男の顔には。


「――ッ!」

「大丈夫だ」

 声だけが、彼だった。

 それが誰だか確認しようと、次々と名前の浮かぶたくさんの人間の頬に手を添える。

「愛してる。大丈夫だ」

 愛してると繰り返す。私は彼に縋りつき、全身で呼吸を続けて、愛していると返した。知っている、と彼が囁く。僕は誰なんだ。彼は。彼は誰なんだ。思い出せ、と。この医者はどんな顔をしている。


 医者。


「ああ。ドクター、君は」


 君は。医者ではない。

 嘘をついたのだ。

 いつも嘘ばかりだ。

 私を騙して。

 楽しんでいる君の顔が。


 涙を零しそうに歪んで、私を見つめる。君こそが

「ワトスン。僕がついてる」





 彼は私の――ホームズだ。





【6】

 事件の発端はライヘンバッハでの出来事であった。

 探偵は相棒の医者と離れて、悪魔と対峙した。二人で滝から転落する。これが探偵の考えていた唯一の筋書きだ。自分が助かろうとは考えていなかった。ただ、巻き込んでしまった医者だけを無事に帰したくて、彼は教授の策略に乗ったふりをした。

 人のいい医者が、村に急患がいるという嘘に騙されないなどと、誰も思わなかった。 探偵が教授と揉み合っているときに医者が追いつき、悪魔の足を掴むとは。医者が患者を捨てて探偵の元へ駆けつけるとは、誰も予想だにしないことだったのだ。

 教授の振り下ろした登山杖を、まともにくらって医者は失神した。

 逆上した探偵により教授は滝壺へ落とされ、探偵は医者を背負い麓の村まで戻った。

 腹心の部下が自分を追ってくる。探偵はスイスを出て、チベットを目指した。狙われているのは自分だけなのだから、これで医者は助かると考えたのだ。

 兄から医者が何も覚えていないと聞かされたとき、探偵は怯えた。

 自分のことをもし思い出したら――医者は会いにくるだろう。命懸けで自分を守りに来た。次も必ずそうするはずだ。

 探偵は兄に指示を出し、教授一味の勢力が弱まったことを確認すると、医者をイギリスへ送り出してほしいと言った。

 事実を知るべき一部の人間にだけ、ジョン・H・ワトスンを、シャーロック・ホームズとして扱うように指示を出して。

 ホームズという人間がそこにいる限り、彼は無事なんだと、私に――勘違いをさせるために。

 自分の偽名は名前のアナグラムを。


 ずっと私のそばにいたのだ。


 私は一つずつ記憶を取り戻し、回復しつつある。作家としての復帰第一作を、ホームズ訃報のかなり後にでたらめに書いた。

 医者の英雄的行為はいらない。探偵は死んでしまった、それでいい。

 愛しい人の寝顔を見ながら、





 ただ安らかな毎日が過ごせれば、それで。





End.


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