【企画】


『Who am I ? (前編)』


 【1】

 目覚めて最初に見たのは、壁に開いた大量の穴だった。

 その形がVRだと理解する前に影が落ちる。男の顔がじっとこちらを覗き込んだ。見覚えがない。何人目の医者だろうか。数えるのも忘れてしまった。

「ここは、どこだ?」

「ロンドン――ベイカー街です」

「イギリスであることは覚えた。ベイカー街ね」

 私はベッドの上で鼻を鳴らした。医者は手首を掴んで、脈を計った。医療鞄が椅子の横にあるのですぐ気づく。聴診器を当てようと、シャツをめくられた。そんなことをしても無駄なのだが。どうやら外科医ではなさそうだ。

 今まで受けてきた治療も、傷の手当てを除けばいい加減なものだった。別の国でベッドに横たわって数ヶ月、たくさんの医学書を自ら読んだ。

 この症状に普通の医者が役に立たないのを知っている。

「スイスの田舎にいたらしいんだ。そのほかは何も。酒場でひどい喧嘩に巻き込まれたとか」

「ええ」

「脳天を瓶でかち割られて意識不明。目撃者も酔っ払いばかり。みんな一人旅の外国人などろくに覚えてないわけだよ」

「はい――」

「それでも全員僕よりはマシだ。運ばれた先で初めて鏡を見て非常にショックだった。禿げないか」

 手術のために剃った分はすぐに生えますと男が言う。中身が出るので包帯はまだ取るなと。深くて抑揚のある、いい声をしていた。笑いかけて、その声の調子と表情の無さに顔を上げる。

「どこかで会ったかな? 失礼、先に聞くべきだった」

「いえ。私は呼ばれただけです。しかし何もお役にはたてそうにない」

 男は何の感情も見せず、口の端でさえにこりともしなかった。顔なじみでないことに安堵する。

 故郷に戻ったのは昨朝だったが、丸一日の間にさまざまな人間が私の元を訪れた。入れ代わり立ち代わり。

「気にしなくてもいい。単なる健忘症だとみんな口を揃える。重度の記憶障害とは違う。紅茶のカップも持てる」

「ええ」

「記憶力には自信があったはずなんだが」

 その事実すら他人から聞かされたことだった。

 打ち所が悪かった。日常のことに不便はない。言葉も覚えている。ただ自分に関するいくつかのことだけ、すっぽり消えてしまったのだ。

 例を上げればこの下宿の女家主・ハドソン夫人。昨日イギリスに戻ったばかりの私を暖かく迎えてくれたが、始終涙を堪えていた。思い出せないからだ。彼女のことはおろか、自分の顔や名前、住所、年齢。生きてきたすべての過去の記憶が私にはない。

 医者は机の上の雑誌を凝視している。私はよければ持って帰りたまえと言った。

「誰かが何冊も置いていった。読んだことはあるかい?」

「もちろん」

「僕は有名らしいね。結構なことだ――そこに出てくる鈍感な男を連れてきてくれればいいのに。ひどい裏切り者だ」

 医者の肩が一瞬揺れた。上半身を起こそうとすると手伝ってくれる。

 小説に書かれているのは、自分とはまるで別人の性格の持ち主だった。とても実在するとは考えられない、非現実のイギリス紳士。一晩ですべて読んだのは認める。面白いとはいえない。知らない人物の話だからだ。

 作者の男にはまだ会ってないが、顔を見たら直したほうがいい箇所を真っ先に指摘してやると決めていた。

 医者は帰り支度を始めた。呆気ないなと目を丸くした。「君はまた来るのかい」

「――希望があれば」

「ぜひそうしてもらいたいね。無駄口が少ないという医者の美徳を、君はすべて持っている。同業者の男に会ったら、顔を見せろと伝えてくれないか」

 誰にですホームズさん、と真面目な顔を崩さない。私は何度聞いても慣れぬ自分の名前に唸り声をあげた。

「ワトスン。ジョン・H・ワトスンという男にだよ」



 【2】

 冒険小説の中に、ある医者がいた。私はその男を知らなかった。

 英語とドイツ語がかろうじてできる程度らしい頭で、旅先の病院ではその本を見ることはなかったのだが。帰国を手助けしにきたという恰幅のよい男――自分の兄だとわからなかった――が一冊くれたのが最初だった。

「読んだら何か思い出すかもしれん」

「僕が……書いたと?」

「おまえが、書かれている。シャーロック。ワトスンという医者はおまえをモデルにして、イギリスで推理小説を書いていたのだ」

 返答に困る話だった。しかし次の言葉はさらに度肝を抜いた。

「ただ、おまえが酒場で殴られて記憶を失ってこれ幸いと、ワトスンは――探偵ホームズは死んだと記者に言った」

 イギリスでおまえは死んだことになっていると兄は言った。

「どうして。待ってください、僕は」

「おまえは覚えていないかもしれないが、ドクターにはかなり苦労をかけた。恨むんじゃないぞ」

 恨むも何も、私はその男を知らない。

 なぜ自分の訃報が新聞の一面になるのか、どんな職業についていたかを知ったのは、もう少し後だった。

 マイクロフト・ホームズは、国に帰ったら自分の家か一人住まいの下宿がそのままであるから、どちらに住むか決めておけと言った。肉親にしては淡泊なやり取りだ。そっと首に手を当て、頭の傷を確認した以外は。一瞬赤の他人に触れられたようにぞくりとした。

 思い出せない限り他人なのだ。

 とても活字を読む気分ではなく、かといって突っ返すわけにもいかない。

「ワトスンという男に聞き覚えは?」

 マイクロフトは何かを確かめるように聞いた。油断なく細められた目に、鏡で見た今の自分とは似ても似つかないと感じる。

「いいえ、全く」

「そうか」

「貴方のことも、マイクロフト」

 かまやせん、と彼は私の肩を優しく叩いた。おまえが弟であることに変わりはないと。

 今度は触れられても、嫌ではなかった。

 マイクロフトは私を、故郷であるというイギリスに連れ帰ってくれた。自力ではほとんど数分も歩けない状態で、長旅は苛酷だったが、国に帰れば何か思い出せるかもしれないという期待があった。昨日までは。

 ホームズという男の知人には、警察関係者が多かった。私はありきたりの質問を、実の兄ではなくその一人に尋ねた。

「私はあなたがたの同僚なんですか」

 イタチともネズミともつかぬ男が一瞬キョトンとして、唾を飲み込んだ。「ああ……違います。ホームズさん。本は読まれなかったんですね?」

「大衆娯楽に興味が沸かないので」

 丸い目がおかしな男だ。大量に汗をかいていた。あなたは探偵なんですよ、と言われたときの衝撃は書くまい。頭にできた小さな丸い禿げを見たとき以上だった。

 探偵が何かはもちろん知っていた。

「そんなもので食べていけるんですか」

「はあ……おそらく我々より高給取りですよ。場合によっては」

「自分の職業もわからない人間が?」

 それは無理もない、頭蓋骨が陥没するくらい殴られたんだからと形だけの同情を言い残し、彼はお見舞いを置いて帰ってしまった。

 自分はなかなか寂しい男だ、とため息をつく。友人はいないらしい。

 ただ一人を――除けば。

 読む気になれなかった小説を手に、夜を乗り切るしかなかった。そして事実に気づいたのだ。過去の自分が高慢で自尊心が激しく、神経質で嫌味な人間であることを。

 親友だったらしい医者が出て行ってそれきりというのも、うなずけた。




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