【企画】


『Who are you ?(後編)』


 【5】

「珍しいじゃないか。日に二度も顔を見に来るなんて」

 彼はベッドから一歩も動いてないように見えた。警部は、と尋ねると眉をひそめて、もう帰ったと怪訝な顔をする。

 予定より早い。

 私が戻るまでと念を押したのだが――グレグスンにしては珍しいミスだった。今夜の強行策を知っていながら、彼に限ってやりそこなうことなどあるだろうか。

 小机のトランプ、大量の煙草や葉巻の灰、引き出しの端からはみ出た小切手帳を見た。始末をし忘れたらしいコルク栓を傾ける。私は首を振った。

「貴方がきっちり食べているか見に来たのです」

「痩せすぎた自覚はある。君こそ食べているのか――今朝は顔色がよくなかった」

「ポケットに飴が」

 やぶ医者にあやされるほど子供でもない、と彼が体を起こす。移動しようとする肩を押さえてベッドに押し戻した。ガス灯の明かりを調節する。

「ベッドから離れないでください」

「注文がやけに多いな――賭け金の支払いは君に頼む」

「飲ませたなら警部は大損だ。彼は酒に強くない」

 賭け事は未だしも今夜は飲むはずがないという考えに支配されて、演じるのを一瞬忘れた。

「親しい奴がたくさんいるんだな」彼は肩に触れた私の手を引いた。「グレグスンとは初対面のように見えたのに」

 客用グラスの中身がまだ半分以上残っている。彼が取ろうと手を伸ばす前に奪った。

「傷に障るからアルコールは……」

「トバイアスは黙っていればわからないと言った」

「――」

「月給の殆どを病人に巻き上げられて逃げ帰った気の毒な男の名前だ。知らないふりはよせ」

 私の名前は、もう二度と呼ばれることがない。

 鞄から出したものを見て彼は呻き、自分の頭を触る。きつく目を閉じて首を横に振った。

「こんな子供だましの遊びにいつまで付き合わす気だ。首がおかしくなる」

 立ち上がり際に横をすり抜けた。遮った腕を払って居間に移ろうとする。「あれほど窓際に立つなと言ったでしょう」

 強い眼差しが私を射る。室内を歩き回り、閉ざした窓には近づかぬように部屋を観察した。いつどこから狙われているとも限らない。

 彼は私の態度に激昂した。

「僕が死んだことになっているからか。見送りに出るのにも君の許可が必要なのか!」

「警部に振った手の半分も私は見てません」

 彼は私をまじまじと見た。「誰も手なんて振ってない――君こそあの花は誰に貰ったんだ」

 呟きが私の目を覚ました。

 手品の仕掛けに不意に思い至る。グレグスンに一杯食わされた事実を誤魔化すため横を向いた。耳元が熱い。

 もう充分だ出ていけと彼は叫び、手元の本を壁に投げつける。拾い上げようとした私の背中に言った。


 ――君が、ワトスンじゃないのか。


 気を落ち着けてゆっくり振り向く。

 確信に満ちた声ではない。違うと否定する言葉に追いすがる視線を幾度も避け、包帯を替えましょうと返す。気まずい空気が漂う中で作業に専念した。

 呼吸が触れあう位置で彼と会うのは、これが最後だ。

 明日も来るかという問いに、もう来ない旨を告げると――彼はハッと息をのんだ。僕を見捨てるのかと襟首を掴まれる。

「今日でお別れです。私は――」

「そんなことは許さない」

「話を聞いてくれ」

「どこにも……誰にも!」

 君をやらない、と抱きしめる腕に目を見開いた。お願いだと乞う声が震えている。

「君が誰でもいい。ワトスンでなくても」


 医者である私に依存しているだけだ。

 帰ってくるべきではなかった。

 霧の街の離れづらい香りや、熱く濡れた彼の声音を嗅ぐべきではなかったのだ。


 反射で引っ掻いた手に痛みの声もあげず組み敷かれる。全身から読み取る仕草のすべてで君が欲しいと告げていた。降りしきる唇から逃れようと出した腕を彼が押さえる。

 慣れ親しんだ身体の反応から目を逸らした。

 何か――何か見落としている。

 部屋の空気の、何処か――。

 名前を尋ねる言葉に偽名で返した。暗くしたはずの部屋で彼の顔がはっきり見える。半身を起こして、私から離れた。頬に添えた手が温かい。

「いい名前だ」



 微笑んだ顔が、鈍い音と同時に前屈みになった。



 【6】

 頭が痛いと言うのを、大丈夫だと何度も打ち消した。

 自分に言い聞かせるように繰り返す。愛してると唇が囁くので愛してると返せば、知っているさと笑った。


 ――君は、医者ではないな。


「大丈夫だ! 僕がついている、大丈夫だ」

 そっと彼の名前を言った。頭に触れぬよう首筋の脈を取る。弱々しい。彼は口ずさんだ。

「本当に。君は」


 嘘つきだ――。


「しぶとい。貴様らのしぶとさときたら」

 闇の中から地面を這うような声が聞こえる。彼の体を後ろに庇い懐から出した銃を構えると、影がゆらりと扉から出てきた。手には硝煙を上げた空気銃を持っている。

「用意が悪いな。次からは蝋人形の身代わりでもこさえておけ」

「――」

 執念深い蛇のような佇まいの男だった。銃口を向けられても悠々としている。

「滝の話は今まで以上に酷い出来だったぞ」男は床に落ちたままの本を拾って鼻に皺を寄せた。「相棒の不手際を恨んで、次こそ華々しい物語の幕を閉じて貰わねば。今度は観客もいることだ。適当には書けまい」

「要望には応えよう――しかしそれを読めるころには死刑になっている」

 応じながら天井に向けて発砲したのは、音のしない空気銃ではない。隣の家屋を見張っていた警官隊の発するホイッスルが、ベイカー街に響いた。

 モランは笑みを絶やさず、顎をしゃくった。

「構わんさ。ホームズを確実に殺すことだけが目的だ。世間的にもな。そのためなら自分の身など惜しくはない。隣の部屋で君が来るまで待たせて貰った」

「――狙撃の名手にしては荒っぽい」

「裏を欠いた私の勝ちだ。ワトスン博士」

 震える私の声に高らかに笑い、探偵はモリアーティ一味に敗けたのだはっきり書いてくれ、と言った。

 居間の鍵をこじ開ける音が響く。モランは私に、撃たなくていいのかと小首を傾げたが――レストレードが部屋に入るほうが早かった。取り押さえた男に手錠をかけるのは部下たちに任せ、銃を構えた私の腕を下ろさせる。口から低い呻きが漏れた。

「すまない――読み違えた」

 警部はベッドにうつ伏せる患者を見て、顔を背けた。

「グレグスンは向かいのカムデン・ハウスの地下に監禁されていた。現場に薬液の染み込んだ布が……」

「背の高い木偶の坊を気絶させるのは骨が折れた。運のいい男だな! 頭でも殴れば探偵と同じように記憶も奪えたかもしれぬのに」

 自分の正体を知らしめるため名前のほうを借りたが、奴は気づかなかったと嘲笑する。

 ――彼と賭け事をしたのはこの男だ。

 若い警察官が拳銃の際で大佐のこめかみを殴った。レストレードが卑劣な者にはこうするのだと素手で殴る。男は鼻から血を流しながらも、笑いを納めない。

「モリアーティは足を踏み外し自分で滝から落ちた」

「負け惜しみを。一生悔いるがいい、ドクター。ホームズは貴様が死なせたのだ」

 冷静さを懸命に装う。私は静かに言った。

「真実を塀の中で聞くか――あの世で飼い主に聞くことになるかは天に任せよう」

 私の言葉を聞いたレストレードが、連れて行けと吐き捨てる。笑い声が遠退くまで、私は動かなかった。

 静けさを取り戻した室内で、警部が近づく。喉から言葉を絞り出した。

「読み違えたのは僕だ。大佐の自暴自棄な行動までは予測できなかった。君たちは充分よく」

「彼は」

 もう死んだのか、と問う眼差しに後ろを振り返った。そっと患者の脈を取るうちに、まるで眠っているようだ、と警部が鼻をすすり上げる。

「うん。眠っているようだ」

「そうだな。まるで……」

「本当に眠っているのだよ」

 とうとう頭がおかしくなったのかとレストレードが私を見る。

 彼の頭に巻かれた包帯を片手で探った。毎日毎日、何重にも重ねたそれを全て外すと、頭を守るぐるりとした鉄板がベッドに落ちた。穴がひとつ開いている。

 患者は無傷だった。

 レストレードが悲鳴を飲み込む。私はまだ外で罵倒を発している大佐を欺くため、人差し指を唇に当てた。鈍い――痛み。

「至近距離から撃ってくるとは思わなかったが、狙うとしたらここだ――悪いが医者を呼んでくれ。きちんとした奴を」

「まさか……彼を囮にしたのか!」

 いいや、とため息を吐く。冷たいものが滝のように体を流れた。部屋の壁が回る。立っているのも難しい。

「大佐が捕まらないようなら、私が死ぬつもりだった。頭の仕掛けは、暗殺が先に実行された場合の保険だ」

 馬車の走り去る音に気が遠退く。ホームズ、と自分を呼ぶ手に引っ張られ、椅子に倒れこんだ。


 膝頭が震えて息が出来なかった。

 開いた扉の先に誰が立っているかわからなくなる。

 今度は本当に死なせてしまうかもしれない。


「移送完了しました、指示を……」

 医者を呼べ、ホプキンズ! という言葉を聞いたが最後、私はレストレードの腕に昏倒した。




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