【企画】


『Who are you ?(前編)』


 【1】

 君が一つ何かを思い出す度に、震える額に汗が滲んだ。

 あまり長い間そばに居られそうにない。

 思い出深いベイカー街に戻ることを、一番恐れていたのは私だった。些細な事象を細かに書き記す彼の癖が、その指先を黒く染めている。ベッドから居間の長椅子までが遠いからと、ほとんどの時間を横になって過ごしていた。

 記帳している間は私を見ることもない。

 他に患者はないのかと聞いてくる。ロンドンで外国人が開業するのが、如何に困難か説き伏せようと目を合わせた。

 焦点の定まらない虚ろな瞳が、私を捉える。

「そんな態度じゃ患者を不安がらせるだけだ、ドクター。無口にもほどがある」

 顔を伏せたが、覗きこむ視線が痛い。臆することなく見つめ返せば、僕に構わず何処へでも行ってくれと興味もないふりで覚え書きを増やす作業に戻った。

「兄上から多額の治療費を頂いています」

「話相手には困ってない。あの巨体で頻繁に通ってくれるんだから、マイクロフトは友人三人分だよ」

 君は別だが、と彼は含み笑いをした。

「僕だけミスターで呼ぶのもそろそろやめてくれないか。なんなら母国語を使ってみてくれ。僕の祖母はフランス人だったらしいから、何か記憶が戻る引き金になるかも――」

 私はうなずいて慎重に言葉を選んだ。

「ナマムギナマゴメナマタマゴ」

 彼は片手を上げてうなずき返し、いまこそ名探偵の出番だ、とベッド脇に山のように積まれた本を眺めた。

「韻を踏んでるから詩の一節に違いない。呪文のようでもある。少し舌を噛んだのも聞き逃してはいけない。Mの使用が多い作家の名前を思い出すまであと百年ほど待ってくれ」

 まさか気づかないとは思わなかった。東洋で覚えた唯一の言葉だと教えるより前に、彼は溜め息をついて記憶力に自信がないと首を振り、ぽつりと呟く。

「なぜスイスに行く前はあんな仕事をしていたのだろう」

 彼に障害を負わせたのは私の責任だ。

 頭の傷は治りかけていたが、手の込んだ消毒が必要だった。彼の頭の中身が混乱せぬよう謀る必要もあった。

 広大な国の奥地で気の毒な友人の記憶障害を治す文献を長い間探しているうちに、彼の中にかつてあった私の特徴も掻き消されている。

 私が誰か、思い出すことはない。

「人が口を利かないのは失敗を恐れるときだ――君が何かを間違えても、僕は馬鹿にしたりはしない」

 まさにこの瞬間からかったばかりだったので、私は口を閉じるという能力の偉大さを思い知った。

 窓に背を向け、極力表情を読み取られぬよう体の位置をずらす。彼は人の心の動きには敏感だった。関係を直感的に悟り、謎の答えにまでは至らないにせよ重要な主軸を抑える術には長けているのだ。

 私が置き忘れた感性の一部はいまだ彼の中にある。

 しかし探偵の物語はスイスで終わった。これ以上は蛇足にすぎない。

「ミスター・ホームズ」

 次の往診があるからと続ける。追求を逸らす手もあったのだが。最後の面会をいつにするべきかという難問のせいで、少し長めに目を合わせてしまう。

 離れ難い。責任の話だけではなく。

 その時はいずれ訪れる。今までの努力が無駄になる不安に小さく喘いだ。会うべきではなかったのだ。今更遅いが。

「誰も彼もが律儀に僕をそう呼ぶ。その名前は懲り懲りだ」

「ではムッシュ――」

 尻の座りが悪い、と包帯を握った手首を引っ張られる。表情を作る暇もない。顎先をついと窓側に押しやられた。

 横顔を晒すのは初めてではない。

 不躾で強引なやり口に背筋を何かが走り抜け、咄嗟に手をはね除けた。虚空を掻いた指からペンが床へ転がり落ちる。

 沈黙が重い。

 立ち上がり際にペンを拾った。階下の僅かな物音に気づき、息をつめる。

「誰か来たようですね」

 関係者と鉢合わせるのは避けなければならなかった。


 【2】

 彼は顔をしかめると首を振った。「外の騒音しか聞こえないぞ」

「1ギニー賭けましょう。男が一人。すぐに中に入れたのは頻繁に来る人物だからだ」

「ずいぶん耳がいいんだな」

 靴音の調子やノックの仕方で正体に気づく。間に合わない。部屋の扉をこちらから開けた。

「――!」

 鋭く睨みつけると、その口から禁断の名前が漏れることはなかった。顔を見合せ安堵する。この男なら大丈夫だ。私は唇の端を持ち上げた。

「失礼。いま帰るところです」

「ドクター。医療鞄も持たずにかね」

 失態に目をきつく閉じた。目の前の男が発した咳払いのおかげで、彼に舌打ちを聞き取られずに済む。機転の利く男に感謝した。

 平常心を装って振り返ると、声の主は近くの雑誌を必死に選んでいる。「君とは初対面のはずだ。名前を当ててみせよう」

 しばらく唸って探ったが、物語の登場人物として探すのは諦めたらしい。手帳に挟んだメモを出し、思い出したと叫ぶ。

「――レストレード君?」

「そんなチンケな名前には聞き覚えがありませんな」

「そうだ。彼がこれを持ってきてくれたのだっけ」

 本に逆戻りだ。思い出す気がないのは明白だった。グレグスンは私に目配せをして言った。

「主治医の方ですか。向こうでお話させていただきたい」

「患者抜きでおかしいだろう。ここで話したまえ」

 まったくもって油断ならない。彼は記憶の中の顔と照らし合わせるように、腕組みをしてグレグスンを見た。

「まだ名乗るなよ。思い出してきた」

「期待はしてません」グレグスンはため息をついた。「記憶を失う前の貴方にもあまり好かれていなかったようなので」

 彼は改めてグレグスンを正面から見て、壁の向こう側にある部屋の方向を睨みつけた。

「上等だね。一番信頼していた男にはおとしめられたらしいから――逆もあるんじゃないか?」

 グレグスンは私の指示を忠実に守り、無駄口には反応しない。残念ですとだけ言った。私は包帯を鞄に押し込み聴診器を帽子に入れて、彼の視線を避けた。

「やはり外で話しましょう、警部。患者の神経に障ったようだ」

「僕は怒っちゃいない」

「グレグスンです。スコットランド警察の――」

「疲れているようだ。寝てください」

「怒っちゃいないと言ってるだろう!」

 熱が出てきたようだから残れと駄々をこねる。「ただ考えるんだ。なぜワトスンという男が僕に……君たちの話は」

 辻褄が合わない、という囁きを無視する。目深に帽子を被れば、彼の目を見ずに済んだ。

「また明日来ますよ」

「ドクター」

 私は困り顔のグレグスンをドアの外に押し出して言った。希望通り敬称もつけず。

「さよなら、ホームズ」

 返ってきたのはベッドに伏せた音だけだった。




prev | next


data main top
×
- ナノ -