【企画】


『ホームズと我が子(後編)』


 【5】

 息子はワトスンの腹の上で夜泣きもせずに寝ていた。

 遊びつかれて長椅子に寝転び、ベストとまくりあげたシャツに皺が寄るのも気にしない。寝ているとばかり思って二人が落ちないよう見張りながら本を読んでいたが、パイプの煙が恋しくなる。

 部屋を出ようとすると、ワトスンの息使いが違うことに気づいた。

「起きたかい」

「吸うんなら、僕も頼むよ。起こさないように大きな子犬を下ろしてくれ」

 抱き上げてもセバスチャンは起きなかった。用意の済んだ部屋のベッドにそっと寝かせる。何かあったときにすぐ対処できるよう、扉を半開きにした。

 ワトスンが窓の鍵をかける。赤ん坊の寝顔を見ていると女性の影を思い出しそうになり、目をつぶって堪えた。

「ホームズ」

 居間の隅でワトスンが手招く。パイプを渡され、マントルピースに腕をついた。

「半日父親をやった気分はどうだい」

「悪くない。君も楽しんでた」

 言葉とは裏腹に、マッチを擦る指先が震える。どうした、と顔を覗きこまれて逸らした。

「だが、僕には育てられない。それを試していたんだろう――マイクロフトと二人で」

「立派にやっていたじゃないか」

「わからないのか? 赤ん坊は人形じゃない。これが毎日続いて、日々大きくなるのを傍で見てやる」

「できるよ。できないわけがあるか」

 ワトスンを睨みつける。言葉にはしなかったが、彼は意を組んで頷いた。

「すまない。確かに僕は子供を育てたことがない。作ろうと努力したことも」

「機会はたっぷりあったはずだろう」

 ワトスンは傍らのソファの背に腰を下ろして、ようやく葉巻の口を切った。マッチを擦ってやれば私を見つめる。

「君が居たからだ」

「――所帯を持った」

「そういう意味じゃない。事件についていく度に、僕は……つまり、君と完全に縁を切るというのでなければ」

「自分の命にさえ責任ができるから、僕は妻を持つ気はなかった」

 ワトスンは私の声に耳を澄ませ、顔をしかめた。

「結婚したいと思った女性なのだろう?」

「僕は君にさえ話していない。複雑な事情が絡んでいたのだ。しかし君の言うとおりだ。彼女を愛してた」

 押し黙って、窓の外を見た。明かりは消えて、霧の渦のせいで空が赤っぽく光っている。

 部屋の空気が重くなったのは、湿度が高いせいだと自分に言い聞かせた。

「育てる気はないのか」

「マイクロフトはうまくやれる」

「後で後悔することになるぞ」

 安易に頷いた。今はその予知が現実になっている。

 ワトスンは小さく笑った。

「僕には思い出が残った。成長してから次に会うまで、君が仕事に集中できないと言うなら、彼に会うのは辞めよう」

 私は煙が深くならぬうちにパイプの灰を皿に落とし、ワトスンが倣って火を消そうとするのを遮った。

「ありがとう。ワトスン」

 腰を屈めて頬を擦り寄せる。いつからこの男が特別になったのか考えかけてやめた。

 特別を作ってはならない。いつまでも共に居られる保証はないからだ。

「――薬はもうやめたまえ」

 遠慮がちな声の調子に、首を振った。息子がいれば使わなくて済むだろう。しかしそれは私が私でなくなるのを受け入れるということだ。

 彼に嘘はつけなかった。一言だけ言った。

「しばらくはね」



 【6】

 朝の目覚めは耳を引っ張る小さな指が引き起こした。

 爪が小さすぎて心許ない。寝ている間に切っておけと言われていたが――兄の指は武骨すぎて使えない――セバスチャンのほうが早起きだった。

「ダド。スン」

 呼び方が気に入ったのか、繰り返してシーツの上でゴロンと寝転ぶ。生えそろってない髪の毛に不安になった。

「この薄さは頭の良い証拠だ。ワトスンの髪を見たまえ、きみ。ふさふさだろう」

「――ひどいことを教え込むな。髪は三歳ほどになったら生えてくる。まあ、抜けるのも若いうちからかもしれないが」

 人の頭を見るのでタイを投げた。結局そのまま寝てしまったのだ。

 朝の支度は夜の段ではなく、慌ただしかった。普段は仕事を熟しながらマイクロフトと雇いの乳母が世話をしているというのに。

 約束の時間にはたっぷりあったが、準備はすべてワトスンに任せた。

「子供はすぐに大きくなる。僕らのことなど忘れるから――今のうちに相手をするんだ。ホームズ」

「この子は記憶力がいいよ。永遠の別れではない」

 ワトスンが手を止め、鞄に詰めた物を見ながら言った。

「探偵業をやめる気がないなら、別れはある――君をスイスで失ったとき、僕の一部は死んだのだ」

 本当は、とこちらを振り向かずに言った。

「君が父親になると言えば、もう片田舎に引っ込んで養蜂や薔薇園を造る手伝いをしてもいいと思っていたよ」

「サセックスの農場を買い取るには、まだ資金が必要だ。この子にはしっかりとした教育を受けさせたい」

 言いながらも、ワトスンがついの住み家で自分の傍を離れないという夢に浸った。

 ワトスンと囁けば、スン、と膝の上でセバスチャンが首を捻り、私と彼を見比べる。


 こちらを見てほしい。

 君が居たら長い別離も堪えられる。


「ワトスン」

 彼が振り返ったとき、息子は私の頬を目一杯引っ張ったので、情けなくなった。

「そんな顔をしちゃ駄目だとさ。ジュニアは君のことをよくわかっているよ。離れてもいずれまた――時間はかかるかもしれないが」

「ああ」

 私の生返事にワトスンは溜め息をついた。手を伸ばして僕の腕においでと言うので、セバスチャンを渡した。

「馬鹿だな。こっちじゃない」

 赤ん坊ごと抱きしめられる。頭を彼の肩に乗せて嗚咽を殺した。子供は間に挟まれて苦しそうに喘いだ。

「ダディ」

「ああ、そうだ。彼が君のパパだよ、ジュニア」

「スン」

「……もうそれでいいさ」

 肩で笑った。苦笑するワトスンと裏腹に、息子が顔をしかめた。自分には似てないと思った顔が、とても親しいものに思える。


 愛しい我が子を育てたのは、その一日だけだ。


 この覚え書きが、君が聞きたがった私と息子との思い出だ。セバスチャンは君ほどではないが頭が切れる。何かの役に立てるといい。私のほうが弱みを握られた気もするが、君に隠しごとは出来そうにない。

 ワトスンとは仲良くやっている。農場で腰を弱めたが、君の鋭い読みの通り他の理由もある。

 追伸・薔薇園は豊かだ。積極的には来たがらない義弟を今度連れてきてくれたまえ――。


 親愛なるマール・アドラー・ノートン

 ――シャーロック・ホームズ


End.




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