【事件簿】


『ホームズと実験16』




 9


 後の話はたいしたことではない。





 ベイカー街での他愛ない毎日が始まって、終わったことにしよう。

 ワトスンの役割を越えて頭を働かせすぎては、話に水を差す。

 これはホームズの実験ではない。私がこの期やるべきことはとても簡単だった。





 知的な怪物の選択を待てばいいだけのことだ。





 立ち上がり、黙って窓際に寄り葉巻の先を切って彼に背を向ける。もう次の行動も読めた。

 楽しい実験は終わってしまった。しばらく事件もないかもしれない。

 彼は注射器を盗み見るだろう。あれがまた必要だ。シャツを捲り上げ、腕に針を刺す。



 ワトスンは窓を向いたままだ。問題ない。

 しかし、妙に身体が熱いのはなぜだろう? 窓を開けてくれと言おうか。震える快感に途切れた声が出そうだ。



 手に取るように思考が感じられて、三分は待った。振り返ると、ワトスン、と夢見るように囁く。


「ホームズ。知人の医者と同じ名前だからと言ったのは覚えているかい」


 もはや彼には聞こえていないようだった。二度目に同じことを繰り返したとき、ようやく返事をした。

 私は本棚の前で振り返り、腕組みをした。負けず劣らず長い名刺に思いを馳せる。

 彼はいまだ不安定な博士のよき友として、あるいは同じ性癖の仲間として仲良くやっていくに違いない。


「私のことを思い出したアタースンが帰りに教えてくれたよ。君がいずれ僕から離れて、またチベットくんだりまで行くと話していたことを」


 遠退く意識で言葉を拾っているらしい。

 彼から逃れるのは不可能なのでしょう、とホームズは嬉しそうに笑った。誰の言葉なのか。


 男。女。


 私はどちらでもよかった。男のきみはここにはもういられないと言うのが気掛かりなだけだ。

 変装には限界があるが、ヴァイオリンケースに隠した小壜で姿を隠されるのは困る。

 心配いらない、君のことは書くよ。実際の君とは多少違ってくるだろうが、みんなが納得する話を。





 僕には天使の腕だけ残してくれたまえ。





 ホームズは喘ぎながら、痛むらしい胸を押さえた。

 注射にしとけばよかったと、初めに後悔していただろう。


「ワトスン――注射器の中身は」


 私は堪えきれずに笑った。










「塩だよ、ホームズ君。ただの塩だ」










End.






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