【事件簿】


『ホームズと実験15』




 8


 後始末のすべてをレストレードに押しつけ、ささやかな古巣に戻った。



 事の次第をホームズから直接聞いても、理解するのに時間がかかった。

 彼は私が聞きそうな質問の答えをあらかじめ用意していたのか、時系列順に説明したが。



 当初知っていたいくつかはそのままで、ホームズの予測はその後の事実で裏付けされていた。



 初めにアタースンの依頼を受けなかった理由は、その内容が問題であった。

 ジキル博士自体が妄想の産物であり、薬は本物でも現れる効果が違うこと。彼自身は自分の正体も周囲にばれていないと信じていること。

 果ては博士自身の女性コンプレックスに至るまでを議論なしに語るだけで、数日を要したのだ。


「大学で塩を飲ませられた話はしたね? どんな実験の結果でも、自分で試さないことには信じられないんだ」


 ホームズはいった。

 理想の自分を実現化するはずが、大量に服用したために精神力の限界が訪れた。効果を大きく離脱してしまうまで、あの実験は成功だったと。

 正気になれたのは目の前で行われたのが男女のキスではなく――男同士だったからにほかならない。

 博士は男色の気を隠して生きてきたのだ。不条理にも排斥されてしまう時代に生まれ、生き方を見失っていたのだろう。

 自身を孤高の人物に重ねてあらゆる場所で読まれた作品に系統し、その通りに人生をおくろうとしていたのだ。

 厄介なことに頭が人並み外れてよかったため、中毒になるほどの薬を完成させたのが真相だった。


「よくできてはいるが、だいたいこっちは解離性同一障害の話だろう」


 私は長椅子に寝そべるホームズに、『ジキル博士とハイド氏』を見せた。噂によるとこの本は、スティーヴンスンがコカインのやりすぎで勢いに任せ書き上げたものらしい。

 一人の男を天才に変えるまでのめり込ませたなら、素直に称賛してしかるべきなのだが。


「きみの崇拝している作家の十八番と同じだ」


 私の気持ちを汲み取ってか、彼は傷口に塩をすり込むようなことをいった。鯨についての本はすでに棚の奥である。

 現実に戻った気分はどうだい、とホームズがパイプを持ち出す。特別な事件も見当たらぬ朝刊を伏せて、旨そうに煙を吹いていた。

 いつもの日常だ。


「小説に出てくる登場人物が揃っただけで、ひどくおかしな気分だった。しばらく冷静には考えられそうにない」

「自分の著作も交えてジョークを言ってただろう。ドクター・ワトスン。君は完璧に君自身を演じていたよ」

「あれは本気だった。しかしきみの言うとおりだ。最近は探偵助手『ワトスン』としての役割にも疲れている――何か自分らしさを出さないと正気でいられなかった」


 ワトスンは冗談を言わない。冗談を言うのはワトスンではない、というのが探偵物語の登場人物としての方針であった。


 どうしても気になって、きみが理性を保っていた方法は?と聞いた。





 その瞬間だけは、何か期待していたのだ。

 妻のドレスで着飾った若い女ではなく、共に長い時間を過ごしてきた相手に。

 甘い言葉でなくとも、少し照れて見せたり、いつもと違う反応を返してくれることを。





 ホームズは腕を頭の後ろにやって大きく伸びをすると、そんなこともわからないかという調子で顎を上げた。


「マイクロフトだよ」


 探偵以上の頭脳を使わず、始終眠っていただけの人物を持ち出した。

 アイリーンとしての人格がどこまで彼の中に居たのかはわからないが、自分自身と始終戦っていたにせよ配慮が足らないと思った。

 私はかなり――かなり心が動いていたのだ。

 つけ足すように、ほかは煙草だと言う。完全に自分を取り戻してから吸っていたのはそういうわけか。


「家族が傍にいるまま自慰ができるかい? 妄想の自分に耽って、快楽に身を委ねて」


 私はぎくりとしたが、言いたいことは掴めたので首を振った。


「きみは僕の前で薬を打つだろう。あれはエクスタシーのひとつじゃないかね」

「ワトスン。きみを家族のように思っているが、それはまた別の話だ。兄の前で注射しろと言われれば、僕は断る」


 私の浮かべた表情を見て、ホームズは違うのだ、と苦笑した。


「兄はずっと葉巻を吸っていただろう。気づかなかったのか」

「いつだって僕は気づかないままだ。安心したまえ、薬をやろうが今後は咎めたりしない」


 ホームズは長椅子から体を起こし、私の座る椅子の傍らに立った。人の上着をめくると、葉巻入れを探り中身を許可なく出す。

 ワトスン、と言い聞かせるように言った。





「あれは君の好んで吸う葉巻だ」





 そこだけ声の感じがいつもと違って聞こえた。熱を帯びて素顔を晒してしまったように。

 目を見ると、先にはなにも続かなかった。

 視線を外して、肩をすくめる。


「香りが拡散するように、ずっと暖炉の前に座ってもらっていたのさ。兄さんにまた借りができたよ」


 普段の単調な声に戻っていた。

 ホームズはなぜ女性になろうとしたのだろう。ジキル博士の目を醒まさせるのが目的でなければ、なぜ?

 食い下がろうとしてやめた。同じ部屋にいるだけだとしても、ホームズにとって唯一説明を必要としないのが彼の兄なのだ。





 理由を必要としないのが私だとすれば、それでいいはずではないか。








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