【事件簿】


『ホームズと実験11』




 6


 室内に現れたジキル博士は、青白く目と鼻ばかりが大きく強調された中年の紳士だった。



 出で立ちはお世辞にも整ってはおらず、ふらふらと幽霊のような動きをしている。

 アイリーンの言葉の何がカンに障ったのか、大きく叫んだ。


「約束はどうした! 私の依頼は?」


 私は眉をひそめた。ジキル博士はアイリーンがホームズであることに気づいているらしい。

 依頼とはなんのことだ?


「ジキル博士。あなたはまだ誰も殺してない」アイリーンが言った。「殺人事件など行われてないのだから、そのナイフを仕舞ってちょうだい」


 私はハッとしてジキル博士を見た。彼は自分の手のうちを見て、目を極限まで見開き、私を睨むと顎をしゃくる。


「どういう意味なんだ」


 アイリーンは室内を歩き周り、兄の隣に立った。マイクロフト・ホームズは悠々と葉巻を吸っていた。



 複雑な気持ちだった。



 兄の元へ行きたいという彼女について、うろ覚えの住所を頼りに私たちは彼の家に行った。

 馬車の中で待っていてと言われたので、私とレストレードは彼らの会話を知らない。兄も同行させてくれと聞くと、二人して目を合わせた。

 マイクロフトは私と握手をしたきり、笑顔のまま一言も口を利かず、アイリーンを眺めて観察していた。

 体格が大きすぎて、アイリーンは彼と一緒に馬車に乗ってしまった。弟の名前で呼んだのが気になる。彼女は自分の正体について話したのだろうか。

 ホームズは唯一、肉親の兄を信頼していた。

 私に話さないようなことも、彼になら相談してしまうのだ――悔しい思いに唇を噛んだ。


「僕はたしかに君について行ったぞ。死体はあった。あれはハイド氏の仕業じゃないのか」


 私の言葉に、ジキル博士がうなずいた。何度か呼吸を整える。


「血のついたシャツを私も見た――ハイドの部屋で」


 首はまだ赤いが、震える後ろ手で小棚を掴み、気を落ちつけるように呼吸を繰り返す。

 アイリーンは困ったように首を傾げる。


「死体はあるけど、あれはあなたの心の友の仕業ではないわ」

「私が説明しましょう」


 レストレードが間に入る。私は振り返った。

 容疑者の家に行くのに、なぜ警官隊を同行させないのか聴いたとき、警部は「必要ないからですな」と笑ったのだ。

 レストレードも一枚噛んでいたのだと知り、私の気分は滅入っていく。ホームズはなぜいつも、私には話してくれないのだ?

 兄や警部とは秘密を共有するのに、なぜ……。

 レストレードは探偵の役回りを買って出て、大仰に手を挙げた。


「未解決事件の死体ですよ。相談しに行ったでしょうが」

「あ、あれがまさか」


 レストレードはジキル博士についての情報を話す代わりに、自分の相談事を置いて行った。その事件を解決せぬことには、食欲も失せると言ったからだ。


「問題ない。一度に解決する方法があるよ」


 ホームズは笑い、レストレードと黒い笑みを交わして私には聞こえぬ声で指示を与えていた。アイリーンは私に向かって同じ笑顔を見せる。


「私の役割は、ハイド氏に導く証拠を警察に知られずあの場にばらまくこと。私が捜査していても、誰もやり方なんて見ないでしょう?」


 彼女の場合なら、他に目がいくのだ。美しい容姿や、サイズが合わぬために開いている胸元などに。

 ジキル博士は慌てた。


「そんなことをしたら……ハイドはどうなる。冤罪で捕まることになるじゃないか!」

「なあに、捕まらなくたっていいんです。こうすれば、ハイドという男に関する証拠と詳しい人物像を、警察が握ることができる」


 レストレードが続ける。


「私は昇進。元々きな臭い真似をしてきたあなたの友人ハイドは逃げ続け、ジキル博士は困らないでしょう」


 友人。レストレードは――小壜の意味までは知らないのか。

 アイリーンが顔を上げる。


「ハイドが万が一おとなしく捕まっても、アタースン弁護士が役に立ってくれる」


 私はすっかりアイリーンの口調に呑まれているジキル博士を見つめた。

 アイリーンが小壜を胸元に入れる。椅子を引きずり、中央に置いた。腰をかけ、足を組み、指先を合わせて婉然と微笑む。

 その仕草は一見、ホームズがよくする動作に似ていた。

 ジキル博士は目に見えて焦り、俊敏な動きで――跳んだ。





 手を伸ばして女の隠れた園を暴き、亡き妻のドレスをビリビリに、コルセットの下の柔らかな肉体をむしゃぶりつく様が残像のように浮かぶ。

 赤く白く透明な汁に塗れた体で、探偵は痛みか歓喜か判別のつかぬ痙攣をし、涙を一筋こぼし。


 ――ワトスン、助けて。


 アアッと声も高らかにアイリーンが。ホームズが。醜い男の欲望の餌食になってしまう。

 目の前が真っ赤に染まって、自分が何をしたのかわからなくなった。





「ワトスン! ドクター!」


 レストレードが私の脇に手を入れて引きはがす。ジキル博士がこうべを垂れて、床にうずくまっていた。

 いらぬ妄想に迷いこんで、殴りつけてしまったらしい。私は荒い息を抑え、アイリーンを振り返った。

 彼女はただ、椅子に座っているだけだ。


「ワトスン、彼には何もできない。ようこそハイド君」


 お待ちしておりましたとアイリーンは言った。

 警部と共にジキル博士を見下ろす。彼は床に落ちた自分の血液を眺め、最初こそ動かなかった。

 マイクロフト・ホームズが葉巻を吹かす音だけが室内に響く。

 訪れた沈黙を破り、男が一声、咆哮を放った。

 博士の上げた顔に無数の皺がより、パーツが収縮するようにすべて顔の中心に吸い込まれる。


「なっ――」


 ヒィと甲高くレストレードの喉が鳴った。私も口が利けず、気持ちの悪い現象をただ見つめるので精一杯だ。

 骨を折るような音が耳から離れない。その都度ぎゃああと人間の声がジキル博士の口から漏れるのだ。

 その変化はホームズのときとまるで違った。

 明らかに肉体の構造を変えようとしている。レストレードが私の腕を掴んだ。そのまま壁際まで追いやられる。

 警部は、上着から出した拳銃を、まだ人間の様子をしている博士に向けた。

 とっさに手首を叩くと、銃弾はあらぬ方向に飛んでいく。声を聞きつけ、扉を開けようとした執事の肩を掠めた。

 アイリーンが立ち上がり、後を追ってきた召し使いに手を上げる。


「――扉を閉めろ!」


 聞き覚えのある口調だった。

 部屋中の家具を薙ぎ倒すごとく、博士がキキキと口にしながら扉へ向かう。

 腰を抜かした執事たちを狙っているのだ。

 アイリーンはマイクロフト、と声を張り上げる。

 ホームズの兄はどっしりとした体を椅子から起こすこともなく、暖炉の火かき棒を取り上げ、彼女に投げた。

 くるくると宙を舞った棒を、アイリーンが掴み取る。すれ違いそうになった博士の足をそれで払った。

 床に派手な音を立て、明らかに重みを増した肉体が倒れる。

 召し使いの機転によって扉は閉められ、あろうことか手近な銅像でも引きずるような音が聞こえた。


 化け物と共に閉じ込められた。


 レストレードが銃弾を詰め直そうとして、いくつかを落とした。私も拳銃を出そうとするが、汗で手が滑り動かない。

 アイリーンは首を締めようと手を伸ばす博士から逃げ、身をひるがえして部屋の中央に踊り出た。

 扉を背にしているジキルという男はすでに、紳士で無くなっていた。ハイド・パークで出会った、分身の男でもない。


 かろうじて人間の形はしているが、天井に届きそうになるほどの身長。





 ジキル博士の姿に、アイリーンが――ホームズが笑った。








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