【事件簿】


『ホームズと実験10』




 屋敷から離れた小屋で、私は一人頭を抱えていた。



 荒れ果てた室内には、実験の小道具が所狭しと並んでいる。夜間に入って、昼の記憶がないことに寒気を感じた。

 昼にまで現れるようになったのか。

 探偵の言うことに任せて幾日も経つ。我が分身の報告に、耳を疑ったのもすでに過去だ。

 あの薬の何が異変を引き起こしたか気になる……しかし、問題はもっと深刻な事態に陥っていた。



 ハイドの殺人は行われたのだ。



 なぜ止めに入ってくれなかったのだろう。約束は守られなかったのか。薬を持って彼は逃げたのか。

 そもそも、探偵が薬の小壜を欲しがった理由は何なのだろう?

 私は落ち着こうと、震える手で酒を持ち上げた。以前は眠れぬ夜にたしなむ程度だったこれが、私の体を蝕んでいる。

 旦那さま、と執事が外から声をかけてきた。きつく閉まった扉に目を向け、何だとしゃがれた声を出す。


「ここに来るなと言ったはずだ。用があるなら明日にしなさい」

「ああ、その……申し訳ございません。お客様が母屋の方に」


 こんな遅くにアタースンか。奴は自身が私立探偵のような真似をして、私のプライベートな時間を台なしにする。

 笑いが込み上げて、視線を流した。待ってろ、今行ってやるさ。引き出しを開け、ナイフを手に取る。机の上の拳銃に目がいく。

 これでもいいな。よし。虫けらには早くご退場願って、明るい日常を取り戻そうではないか。



 なあ、ジキル。俺の友達。



 興奮して足がもつれ、暗闇で椅子にぶつかった。姿見に自分が映る。

 息をつめた。

 目の下が炭で塗ったように黒い。整えることを忘れた髪がこけた頬の脇に垂れ下がり、一見して誰だかわからなかった。

 扉が激しく叩かれる。


「……待たせてくれ」


 かしこまりました、と言葉を残し、土を踏んで去る音を聴いた。

 鏡に触れると、急に現実感が襲う。すべてが夢ならどれだけよかったことだろう。なぜ私はあんなモノを欲してしまったのだろう。

 取り込まれるのは時間の問題だ。

 手探りでフラスコを取り、水ではない無毒な何かを手の平に擦りつける。垂れた髪を両手で撫でつけ、首まできちんとボタンを留めた。

 震えが止まらないために、時間はどのくらいかかったのか。深呼吸をした。胸を張り、再度のぞき見る。

 笑みがこぼれた。


「私の友達。さあ行こうか、ハイド君」


 ああ、と聞こえぬ声が聴こえた気がして部屋を出る直前に気づいた。持ったままの銃を振り向き様に投げる。

 鏡の割れる音を最後に、鍵を閉めた。





 広くも大きくもない我が家の明かりが、煌々と輝いている。私は眉をひそめ、ざわつく胸を押さえた。

 門の前に二台の辻馬車が停まっている。御者がこちらを向いて、道に唾を吐くのが見えた。

 アタースンではないらしい。

 深夜の客人に心当たりはなかった。急ぎ足で家に入る。執事が駆け寄る。


「あちらでお待ちです。旦那さま、タイは」

「どうでもいい。誰なんだ?」

「名刺を頂いている紳士が三人と、お若い御婦人が一人です」


 差し出された紙を奪い取った。

 一枚目にはその職種、二枚目にはラストネームに衝撃を受けた。三枚目を開ける勇気を失いかけるが、予想と反した名前に安堵した。


 ――探偵は来てない。


 渡された布と名刺を床にほおり投げ、室内に踊り出た。

 暖炉の前に恰幅のよい男が立って、葉巻を吸っている。鼠のような小男が煙草を揉み消した。椅子に痩せた男が座っていたが、私を見てハッと立ち上がる。

 窓際に、女が一人座っていた。

「夜分遅くにすみません」小男が名乗った。「ドクター・ジキルで間違いありませんか?」

 私は彼の握手を無視して、痩せた男に近づいた。彼は棒立ちになって、私を見つめている。


「ワトスン先生ですね」

「……」

「ホームズさんはいらっしゃらないのですか」


 彼は口を開きかけたが、髭をぴくぴくさせただけだった。暖炉の方に目を向け、続いて窓を振り返った。

 女は外を眺めている。帽子が邪魔で、どんな顔か見えなかった。


「探偵はね、今日は休日なんですよ。お知り合いでしたか」

「君には聞いてない」


 レストレードと言った小男は、気分を害したように口をつぐんだ。私がにらみつけると後ずさる。

 暖炉の前で、男が煙を吐いた。片手はポケットに、葉巻を持った手を棚に置いて、窓際を見据えた。


「何か見えるかね、シャーロック」


 私は勢いよく顔をそちらに向けた。同じようにワトスンが真っ青になり、太った男と、女を見比べる。

 レストレードが場違いに笑った。「ホームズさん。妹君も人相当てができるのですか」

 沈黙が訪れた。ワトスンが低くうめき、女の側に寄る。


「言ったのかい」


 女は含み笑いで応えると、振り返った。「なんのこと? 兄さんは冗談が好きなの」

 美しい容姿をしていた。思わず引き込まれそうな美しい姿を。

 騙されるな、と声が言った。俺はあの女に酷い目に合わされた。狂暴だぞ、何をしでかすか解らないと続ける。

 女は私をちらっと見て笑みを消した。背筋に悪寒が走る。


 シャーロック・ホームズだ。


 見ると傍らでワトスンが額を押さえている。私は無言で近くの椅子を引き寄せた。


「具合が悪いのですね」

「あ、ああ。私は――私たちが、ここに来たのは」


 とにかくお座りなさいと肩に触れようとした。横から白い手に阻まれる。

 薬で変化を遂げているらしい探偵が、立ち上がってワトスンの腕を取る。


「顔色がよくないわ。要件を済ましたら早く帰りましょう」


 あなた、とつぶやいた。ワトスンが目を見開き、ぐらりと傾いで他の二人に目をやる。

 探偵の兄は微笑んで、「遠慮せず貰ってくれたまえ、ドクター」と言った。レストレードがよし、と拳を握る。


「やりましたな。後はもう一人だけだ」

「なっ……どういう意味ですか」

「シャーロックなら大丈夫なんです。警部」


 ねえ兄さん、と探偵の兄と目配せをした。紳士は大きな腹を撫でて、子供は期待できんのがつまらないと笑った。

 ワトスンは完全に足の力を失い椅子に倒れ込んだ。

 私は女に顔を向けて、なるべく感情を殺すように勤めた。彼らの会話は理解できない。そのうえで、この女が探偵・ホームズであることは疑いようがない。

 私を訪ねて来たのが証拠だ。

 彼女は探偵と私の関係を知っているのだろうか? それともやはり最初のころのハイドと私のように、互いの時間に干渉することは不可能なのか。

 私が口を挟もうとすると、彼女が無表情に拳をつき出した。


「おしまいにしましょう」

「どういう――意味だ」


 はからずもワトスンと同じ口調で聞いた。問いかけを差し置いて、女はワトスンの肩に触れる。


「ワトスン。例の本だけど、船長と鯨は何を表しているか気づいた?」


「勝手に読まないでくれ……」ワトスンはうなだれた。「古今東西繰り返してきた物語上の闘いだ。追いかける船長は白、追われる鯨は黒」

 善と悪との支配の話だ、とワトスンは囁く。女がそうかしらね、と私を見た。


「支配しているのは船長の方かもしれないでしょう。そうではなくて?」


 その手を開くと、ワトスンがああと目を閉じた。薬の小壜だ。





 私は怒りにかられて何かを叫んだ。








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