【事件簿】


『ホームズと実験9』




 5


 信じがたい事態に、私は鏡を見つめていた。



 慣れ親しんだはずのありえない話が、全く予想しない形で現実となった。自分の作った薬の影響で、おかしな目にあったともう一人の自分が言うのだ。



 探偵に会ったが、女になっていたと。



 薬を必要としなくなったのはいつだろう。変化の間隔が短くなったころだろうか。それとも、ハイド自身の幻聴が聞こえ始めてからだろうか。

 私を心配して友人が雇おうとした男に、会いに行った日は?


 ――かなり前になる。


 自分の変化だけに気を取られ、ハイドと折り合いがつかなくなったとき……私は迷い、自ら探偵の元へ行った。

 私の中の邪悪な人間性を変えてもらおうと思ったのではない。ハイドという男を監視して、犯罪を未然に防いではくれないかと考えたのだ。

 友人のアタースンと、まるきり同じ頼みだった。断られたことも知っている。

 諦めきれずに訪れた部屋は、昼だというのに薄暗く陰気で、ホッとした。私の家がそうだ。カーテンをしめきり、人を隙間から覗き見る。

 外界に出ていくのは、同居人だけなのだろう。

 噂に違わず背の高いひょろりとした体つきで、シャーロック・ホームズは私をにこやかに迎えた。

 株を持っているから調査費は払えると私は言った。とにかく座って話を聴きましょうと探偵は答える。椅子の上から物をどかして、私を座らせた。

 なんとも嬉しそうな笑顔を見せ、カーテンを勢いよく開ける。


「お名前をどうぞ!」

「ああ、窓に背を向けてはいけませんか」


 私は名乗って椅子を示した。探偵は眉をひそめる。

 薬の影響で、私はすっかり光に弱くなっていた。明るい場所を嫌い、できることなら夜だけを活動の場に選びたくなってしまう。

 いらいらする気持ちを抑えた。感情的になると、ハイドを刺激してしまう。


「あなたが私の表情を観察するために、こちらに座らせたのはわかっています」


 探偵は驚いたのか目を見張り、口を閉じた。何かに思い至ったのか、苦笑して鼻に指を当てた。


「これだから小説では嘘をつけ、探偵の手法についてはなるべく書くな、と言ってあるのですよ」


 私は首をかしげた。ワトスン博士のことを言っているのはわかる。

 探偵の物語は少しばかり脚色が強い推理小説だったが、私も知っていた。「著作を全ては拝見していないのですが、あなたは確か」

 私の要望も意見も無視し、彼は自分の顔が逆光で影になる方を選んで立った。私は目を細めながら、特徴的な鼻をじっと見つめる。

 探偵は腕を後ろに組んだ。


「あなたは非常に頭がいい。アタースン弁護士がそう言っていました」

「友人の不適切な表現は忘れていただけますか。私はここに助けを求めて来たのです」


 探偵は身じろぎをして、一歩私に近づく。表情はほとんど伺えない。息がつまりそうになった。

 興味深い、と小さくつぶやく。


「醜い男に付け回されていると聞いています」


 私は視線をはずし、首を横に振った。醜い男。その人間をよく知っていた。

 探偵は次の言葉を待って、口を挟まずにいる。私は唾を少し飲み込み、限りなく勇気を振り絞った。


「彼は決して私から逃れることができません。私がそうできないように」

「それはどういう意味です?あなたの身の危険に関することですか。それとも」


 探偵は手を前に持ってきて、胸の前で何やらかかげた。キラリと光る小さな物に、見覚えがある。

 彼は反対の手に持ち替え、影で見えにくかったそれを高々と上げた。


「これに関する?」


 私はぎょっとして胸元を叩いた。コートに入れずに常に持ち歩く癖をつけていたのだが。

 探偵の手元にあるのは、薬の小壜だった。


「い、いつの間に」

「驚くことはありません。ちょっとした手品です」


 探偵は私に近づいて、失礼と言った。首に手を当て、手首を握り、顎を掴んで私の顔を右へ左へ動かす。

 何も異常はないようだ、と言った。私は焦って彼の手を払いのける。


「私はアタースン弁護士がベイカー街を訪れてから、ずっとあなたをつけていた」


 探偵は私の額に長い指を当てた。「あなたと、あなたの醜い友人と」

 小壜を軽く揺らす。私は椅子にしがみつくようになって、彼を見上げた。

 探偵は急に饒舌になって話し出す。酒場で見かけた喧嘩、クラブで夜通し遊ぶ姿、対称的に家に篭りがちな私の生活のすべて。


「不思議なことに、あなたがたは友人のはずだが――一緒にいるのを見かけたことがない」


 探偵は実に細々したことを数え上げ、決めては靴の泥だとか、体格は違っても癖が同じであると語ったあとに、それは……、





 私とハイドが同じ人間だからだと言った。





 探偵はため息をついて、「彼から逃げることは不可能なのでしょう」と囁く。

 分離した人格、薬の成分のなにが効いたのか想像できませんが、と口にして、派手に散らかった部屋を見回すと。

 探偵は、ヴァイオリンの隣にある注射器を見つめた。


「あれがどんな魔力を持っているかご存知ですか」


 私は、自分は医学から離れて長いからわからぬと答えるので精一杯だった。

 微かに涙ぐんだ目が、哀しみでなく歓喜の色に変わる。私から離れて手を伸ばし、机の前に彼は立った。




 ――――取るな!




 私の声が聞こえたわけでもないのに、探偵は出した手を引っ込める。

 興奮と異常を感じ取ったのか、私の中でハイドが動いた。取ってやれと言う。

 初めのころは聞こえなかった。存在を主張し始めたのは、私が異変に気づいて薬を飲まなくなってからだ。

 全身の痛みに、身が引きちぎれそうになった。気づくと探偵の側に寄り、その手を握っている。探偵は私に向かって微笑んだ。


「メルヴィルの海洋冒険小説をワトスンが買ってくる予定でしてね」


 重ねた手をそのままに、探偵は注射器でなく愛用の楽器を取る。つまびいて鳴った音に、一瞬身体が楽になった。

 響きが納まると、また体中が軋みをあげる。


「海を渡るには長くかかった上に、全く評価されてない」探偵は嘆かわしいと言わんばかりに首を振った。「白鯨を捕まえることに取り憑かれた男の話です」


「いったい何の……」


 あなたの鯨を捕まえるのに協力しましょう、と探偵は言った。





「そのかわり、報酬にはこの小壜を頂きます」








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