【事件簿】


『ホームズと実験7』




 4


 どの問題から話していいのやら、私にはわからない。



 厄介極まりない実験のせいで、ホームズは女性になってしまった。実験の経緯にもどろう。

 私は変化後の彼――彼女、アイリーン(ふざけた名前だ)の能力を見くびっていた。

 ホームズは知っての通り、観察力に長けている。私が例の実験の失敗について、自分から話さなくても大丈夫だと思った理由はそこだった。

 最初に変化が起こったとき、私は腰を抜かして立てなかった。

 想定外の事態。胸が膨らみを増し、体のラインが変わり、少しだが背も縮み。私と同じくらいの身長になった女ホームズは。


 絶世の美女だったのだ。


 年の頃は二十歳くらい。黒髪と灰色の目は変わらず、長さと優しい微笑みだけが違った。男物の服が肩から落ちている。

「あなたは?」というので、てっきり別の人間かと思った。ホームズの悪戯で入れ代わったのだ、いつものように私を驚かして喜んでいるのだと。


「ホームズ、いるのはわかってるんだ。男らしく出てこい!」

「それは無理でしょう、ワトスン。ひとつの体なんだもの」


 彼女は自分の状況が理解できているらしく、自分がシャーロック・ホームズであることもわかっていた。

 実験のせいで分離した自分の人格について、説明してもいい相手か確認したという。

 彼女は混乱している私をほっといたまま、いくつかの質問をした上で述べた。ジキル博士とコンタクトを取りたいと。

 アイリーンとホームズの似たところは思考回路である。私に肝心のことを黙ったまま、利用するのが上手なのだ。


「だっ、だめだ。誰かに会ったら何と説明するんだ?」


 彼女は難色を示す私に近づいた。胸に手を置き、髪やタイをいじりまわし。ああ、なんということか。動けない私を壁に押し付け抱きしめた。


「一度だけでしょう。お願い」

「服もないだろう。いつ戻るかわからないし」


 一度?何が一度だというのだろう。豊かな胸を感じていると、ホームズだということを忘れそうになる。

 お願い、と耳元に再度吹き込まれた。ぞくりとして二の腕を掴む。ほっそりとして柔らかい。


「変装すればわからない。あなたもするのよ、ドクター。メイドがひとりいると言ったわね」


 メイドの服を盗み、ホームズの変装用の服を私に着せ、互いの顔に化粧を施した。鏡を渡されても誰だかわからない出来栄えだった。

 変装ごっこを楽しんだのは否めない。ハドスン夫人の目を盗んで下宿から出る。

 帽子を盗り忘れサイズの合わない服を着ていると……娼婦のようだったが、歩くだけで視線を集めていた。



 彼女が英国一の名探偵とは、誰も気づかない。



 問題はジキル博士に会いに行った先のハイドパークでの一件である。目的地を捜し当てるまで、うろうろしていたのが裏目に出たのだ。

 夜も深まり少し目を離した隙に、彼女を見失った。万が一ホームズに戻って、気絶していたらと気が焦り。

 木陰の先で、彼女が男と揉みくちゃになっていた。


「ホームズ!」


 襲われているのだ。女のか弱い体で、会得した格闘技がなんになろう。助けに走った。全速力で、足を動かした。息が上がる。目の前に来て、彼女が立ち上がる。

 私は口をぽかんと開けて、すべてを目撃した。

 醜悪としか形容できない容姿の男が、美女の足蹴を受けている。


「や、やめろ。私はジキルではない! ハイドだっ。ハイドだあ」


 男は体の大事なところをを庇いながら、泣き叫んだ。

 彼女は無表情で男の汚らしい髪を掴み、耳元で何事かつぶやく。男はコクコクとうなずき、助けを求めて私に手をのばした。

 小壜が握られている。横から伸びた白い手が、それを奪う。

 アイリーンは笑った。

 警察を引き連れてアタースン弁護士が現れ、何もかも見たぞ、と別の男が叫んだ。


「そっちの男が物乞いの女を襲ってた!」


 彼女は物乞いという言葉に片眉を上げ、指を指された私には頓着しない。蹴り飛ばした男に一瞥をくれ歩き去った。

 後に残された私はあっという間に警察に連れていかれたのだ。

 エンフィールドという男があることないこと作り話をし、本当に留置場に入れられる寸前に、私は偽の名刺を差し出した。


 アンガス・マクファースンとして捕まった私の心境を察してほしい。


 下宿に帰るとホームズがベッドに寝ていた。すべて夢かと思ったが、ホームズの頬には化粧の紅が残っている。

 彼が目覚め、私を質問攻めにし、なぜ何も覚えていないのだろう、と嘆いたとき。安堵感に天井を仰いだ。黙っていよう、とホームズに嘘をつく。


「薬を飲んだ後のきみは、性格がまるで変わってしまったんだ。――す、姿形はそのままに」

「悪を凝縮した人格。それでこそ僕の実験は成功してるんだ、ワトスン。ジキル博士の薬はつまりね、善と悪を分けてしまうんだよ!」


 笑った彼女……アイリーン・ホームズを見たとき、たしかに悪魔だと思ったのだが。

 私の勘は当たっていた。

 嘘をつき続けるのは骨が折れる仕事だったが、その時からすでに彼女の才能は発揮されている。

 ホームズの誤算はいろいろあって、彼にそれを理解させるにはどんな証拠を残せばいいのか。私にはわからない。

 いっそ自分で気づいてくれればと思うのだが、女性になってもホームズは彼のままだった。痕跡をひとつも残してくれないのだ。

 どれだけ観察力を持ち合わせた探偵でも、同等の能力を持つ自分の悪事は見抜けない。

 ハイドから取り上げた小壜の成分とコピーをホームズが作っているとは知らず……二度目に彼女を見た朝以降。





 私は耐え切れず、彼女を監禁することに決めた。








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