【事件簿】


『ホームズと実験6』




 入れ替わったあとの楽しい時間は、すべて私のものだ。



 変化は私にも予測できない間隔で起こり、確かに言えるのはこちらが存在できる時間も長くなっていることだろう。


 目覚めるとハドスン夫人の声がした。


 内容を聞いて推測すると、痛みに耐え切れず馬鹿な方のシャーロック・ホームズが叫んだらしい。

 何も問題ないと説明するのに、ワトスンが居間でしどろもどろ嘘をついている。

 私は寝かせられていたベッドから起き上がり、室内を見回した。ホームズの部屋だ。

 貴重な時間を無駄にしたくないので、手早く服を脱ぐ。タンスを開けるが、たいした物はない。

 後ろで悲鳴が上がった。あらぬ方向を向いて、男が立っている。


「ワトスン」

「変装道具の大半は隠れ家にあるらしい。そこにならひょっとして好みの服も」

「用意しておいて欲しいと言ったのに!」


 感情的になると、ワトスンが身体を震わせてうめく。視線をさ迷わせ、大量に汗をかいていた。

 怖がらせるのは本意ではない。私はなるべく優しげに言った。


「紳士は約束を守る」


ため息と共に、ワトスンは自分の部屋を示した。「そんな所に入れられるわけはない。僕のベッドの下にある」

 すれ違うとき、ワトスンは手で顔を押さえてうめいた。着替えを済ませて居間に戻っても、まだ同じ風にしている。

 ワトスンの前に立つ。ちら、とこちらを見たので微笑んで見せた。


「気に入った」

「――僕が選んだわけじゃない」

「小説の挿絵みたいに、インバネスとディア・ストーカーだけで歩こうかな」


 私の皮肉に、街中ではおかしい、と警戒して小さな声を出す。ワトスンは私を外に出したがらない。

 居間をぐるりと見渡して、ワトスンが困っている理由がわかった。


「レストレード警部」

「えっ……何のことだい」


 隠すだけ無駄だ。ホームズが肉体を支配しているときの記憶はないが、観察能力に差はない。

 警部とは一度顔を合わせている。絨毯の靴跡と椅子の角度の癖で、そうと見抜くことは容易だった。


「ホームズと夜に会う約束をしているんだ。ジキル博士のところに直接行くらしい」

「ここに来るなら」

「まさか出迎えに行こうだなんて考えてはいないだろうね」


 私は丈の合わない裾を引っ張り、外出のためコートを探した。若干大きいワトスンの物を借り、彼にも放り投げる。

 ワトスンはひどく慌てた。


「前にとんでもないことになったろう!き、君は知らないかもしれないが、後始末に追われているんだ」

「また変装すればいい。偽造名刺を持っていけば、レストレードくらい何度だって騙せる」

「メイクはもう嫌だ」


 ワトスンが頭を横に振った。私に名前がないものだから、反論しようにも声を上げられないのだ。

 私が部屋を出ようとすると、彼は逆方向にきびすを返す。

 以前外出したときは、ワトスンを使ってハドスン夫人の気を反らしたのだが。自分で何とかするしかない。

 階下に降り、揉める声に足を止める。耳を澄ませた。


「ホームズさんは具合が悪くなられたんです。お通しすることはできません!」

「さっきまで普通でしたよ。いつもより陽気なくらいだった」

「ワトスンさんが誰も入らせるなと言うんですから、明日にしてください」


 ハドスン夫人とレストレード警部、その後ろには警官がついていた。

 馬車の音はしなかったのだが。それとも、ワトスンとのやり取りで気を取られていたからだろうか。

 足音に振り返ると、身支度を整えたワトスンが立っている。

「これなしで外を歩いたら、また物乞いに間違えられるぞ」用意していたらしき帽子を、目深に被せてきた。


「どこへでも、君の行きたい所に連れて行こう。頼むから事件には関わらないで大人しく――あ」


 ワトスンの顔から色が抜け、再度振り返ると、レストレードが手をひとつ叩いた。


「ドクター、よかった! えらいことになりましてね。ハイドって男のことなんですが……おっと、失礼」


 レストレードが私に気づいて、帽子を取った。

 ハドスン夫人は怪訝そうに首を傾げる。誰も取り次いでいないのだから、当然だろう。ワトスンが止めるのも気にせず、階段を一歩ずつゆっくり降りた。

 豪奢な帽子を指先で上げると、ハッと息を呑む声があちらこちらで漏れる。

 ホームズの一番の誤算は、肉体に変化がないと考えていたことだ。彼には唯一苦手な分野が存在する。私の変化はそれを補うことができるのだが。





 ホームズ自身にショックを与えないため、ワトスンは彼を騙すことに決めたのだ。






「あの、依頼人の方がお見えでしたか」


 レストレードが頬を染めて言った。しばらく考える。ホームズの引き出しにある、『あのひと』の写真を思い出す。

 にっこり微笑むだけで、その場の男たちが全員ぽかんと口を開けた。


「アイリーン・ホームズです。兄のご用は私が代わりに承ります」





 後ろにいたワトスンが、低く唸った。








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