【事件簿】


『ホームズと実験1』




 1


 たまに訪れる静か過ぎる時間に、退屈していたのはホームズだけではない。



 彼は多趣味で、ラッススの音楽や中世の羊皮紙、最新の研究論文あるいは煙草の銘柄を当てるのに一日中費やすことのできる男なのだ。

 一方私は本来、動き回るのが大好きな性質だった。

 しかし足に負った古傷のせいで、趣味と名のつくたいていのものが体に辛い。

 覚束ない乗馬、退廃的な上に才能のない賭け事、あるいはちょっとした楽しみである飲酒でさえ、つまらない人生の億劫な儀式としか思えなくなっていた。

 唯一の憩いのひと時さえ、期待したほど気持ちを高揚させはしない。

 ホームズは、好奇心を満たしてくれるものに関わって、没頭している間はとにかくおとなしかった。

 白衣を着て、散らかした机の上で試験官やらスポイトを操っている。

 暇を持てあました紳士の遊びは流行の一途をたどっていたが、ホームズに限っては恩恵もある。

 彼の研究は趣味としてだけでなく、犯罪捜査の現場でもある程度役立っていた。

 実験の出来いかんを問わず、やましいところのある犯人が、ホームズ本人を知的な怪物として祭り上げるのにも、貢献しているのだ。

 細く長い指先で、ときおり愛用のヴァイオリンをつまびいたかと思えば、部屋を歩き回って私をちらりと盗み見る。


「医学雑誌の表紙で隠して読んでいるその大衆小説は、いくらかでも君の脳みそを刺激してくれたかい。ワトスン」


 私は本を手元から落としかけて、両手で抱えた。

 なぜ、わかったのだろう?

 ホームズは面白そうにこちらの行動を眺めつつ、向かいの椅子に座って足を組んだ。


「いや、なに。君の大好きな作家の新刊が出ると、今朝の朝刊に広告があったからね」


 ホームズは暖炉の火かき棒を手に取って、遠くの床に丸まった膝かけを上手に引っかけ、肩に羽織った。


「昼には君は外出したし、本一冊にしては分厚い袋を持って返った。雑誌を拡げて最初のうちはえらく夢中で読んでるから、興味深い論文でもあったのかと思ったが」


 いかにして葉巻入れとマッチを一歩も動くことなく取るか頭を悩ませて、諦めたように首を横に振り立ち上がる。


「そのうち飽きたのか煙草の量が増えるばかりだ。外の陰鬱な天気のせいで、足は痛んでくる。書けるような事件も今は特にない」


 首尾よくありつけた煙の休息が、推理の続きを彼に思い出させた。


「しかるに君は内容に失望していて、学術的見解なら僕といくらかでも討論したがったろうから、膝にあるのは詩集か冒険小説、と謎も解けるわけだよ」


 私はまいった、と雑誌の間に挟んだ小説を見せる。


「だが君のことだ。長ったらしい説明などすっ飛ばして結論に至ったんだろう」

「おおかたはその通りだ。細かい点で思いきった推理を展開するなら、君がすでにその本の下巻も買ったことに気づいた」

「……いったいなぜ?」

「まあそんなことはいいのだ。暇なら僕の些細な実験に付き合っちゃくれないか」


 望むところだ、と言いかけて、膝の激痛に顔をしかめた。


「ワトスン、無理は禁物だよ。それに座ったままでいいんだ」


 ホームズは私の肩を優しく押し戻し、葉巻の残りをくわえさせる。

 居間の端に無数に置かれた試験管のひとつを掴んだ。


「さっきから僕が数値を書き留めているこの手の研究は、ケンジントンのある大学でも実際に行われたものだ」


 試験管の中にある液体を、幾度か振り回して混ぜた。


「人体に影響の少ない、至極安全な代物さ。『悪魔の足』に対抗するなら『天使の腕』だな」

「飲むのかね? 死んだら責任とってくれるかい」

「うむ、善処したよ。僕の遺産はずいぶん前から君名義に変えてある」


 私は慌てふためいて口を開き、舌を噛んだ。


「ホームズ、君が飲むなら話は別だ。だいたいなんの薬なんだ」


 彼は安心させるように笑って、薬の効用を連ね始めた。


「まず最初に断っておくが、悪影響がないといったのは身体の機能のことだ。後遺症があるとすれば、精神に異常をきたしたり」

「なんだって?」

「持続力のあるものではないよ。一次的には叫んだり、物を投げたりするかもしれないが。それは僕にもわからない」


 指一本で私の抗議を押し止め、ホームズはため息をついた。


「できれば僕だってやりたくないが。君が協力してくれないというなら、マイクロフトにでも見てくれるように頼むしかないんだ」


 悪戯っ子のようにはにかんで見せる。


「警視庁の連中には内緒の捜査だからね」


 私はあっと呟いた。

 では、これもなんらかの事件に関わる実験で、薬は重大な証拠かなにかだろうか?

 ホームズはよく人体実験を決行して、犯人の正体やトリックを暴き出す天才だった。

 なかには大変危険性の高い液体や揮発性のある猛毒を自ら扱い、死にかけたこともあるのだ。

私が気を取られた一瞬のうちに。




 ホームズはためらいもせずに試験管の端に口をつけた。








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