【事件簿】


『怪盗と変態8』




 我が国の紳士間ではいまだそれほど普及してない。トルコ風呂の熱くて気持ちの良いことといったらないのだが。

 ワトスンは負傷した足も、年をとって太ったついでに腰も痛むので、足しげく通っていた。仕度をして機嫌良く探偵を誘う。会話が続くことは期待してないのだ。

「どうだいホームズ。一緒に行かないかい」

「……どうだいワトスン、一緒にやらないかい?」

 医者はホームズから注射器を取り上げて、その顔をのぞきこんだ。悪い遊びを覚えさせてしまった部屋の主を恨む。つまりは過去の誰かのことだ。

 ホームズは椅子にだらしなく座ったまま、鼻を鳴らした。

 ベイカー街に戻って一ヶ月あまり。楽しい夜のひと時は別としても、することがない退屈さに欠伸を噛み殺すのは骨が折れた。「あんなもの。軟弱な男の行く場所だよ。暑いばかりで鍛練にはならない」

「いつも風呂のあとは風邪を引くじゃないか」

「湯船のない風呂が、風呂と言えるのかい。そしてもう二度と嫌だ――君が書きさえしなければ」

 冷水の間違いだ。そもそも風呂が鍛練になる風習自体、改めないといけない。いくらあとから熱湯を継ぎ足しても、雪の降る夜に温かい休息は得られなかった。夏は湯の替わりに虫がわく。

「マッサージつきだ。チップを弾まなくても、高級葉巻プレゼントキャンペーン中!」

「みみっちいこと極まりないね」

「朝の5時にバイオリンを弾いても許しますチケットをつけよう!」

「3時くらいなら考えてもいいが。模造のほうはどこへやった?」

 知らないよ、とワトスンは首を振る。どうせ好きな時間に弾くのは決まっているのだ。仕方ない。別の日に予定を組むか、と部屋を後にした。

 ホームズは部屋着の前を閉じて、うつらうつらと船を漕ぎ始めた。しかし用事を思い出して、億劫な仕事をやらねばならぬと起き上がる。

 今朝届いた電報を見た。うまくいった、と微笑む。

 古巣に帰るのには理由があった。滝後の作品に関しては心配いらないが、それまでの共同著者に釘を刺しておかねばならず、ちょっとした捻りを利かせてそこをクリアしたのだ。後はほんのいくつか……これまでどうにか危ない綱渡りをしてきたのだから、この賭けも成功させるぞと決意を固めた。

 そろそろ非合法になってきた薬物を前に、息を吐く。これが最初で最後だ。継続するなどというのは正気の沙汰とも思えない。

 探偵はソファで仮眠を取ろうと窓辺を振り返り、ギクリとした。

「今後君の役目はね、アルセーヌ・ルパンの手下を寝ながらにして相手にすることだ」

 部屋着のポケットを探って、舌打ちする。銃を携帯する習慣がないからだ。

 すらりと背の伸びた男が立っていた。影になって顔は見えない。ワトスンを呼ぼうとしたが、男が先に言った。「動かぬほうがいい」

 後ろの男が探偵を椅子に押しつけ、両手を縛られる。こめかみに銃が当てられた。手早い動きで誰か見ることさえできない。

「彼は下だ。どうする」

 三人目が目の端に映る。幾分華奢で、青白く見えた。持病でもあるのかと探偵は考えたが、実際はただ長年相棒の荒っぽいやり方に付き合って、やつれているだけだった。

「ワトスンには手を出すな。老婦人も関係ない」

「知っています。手荒な真似をして申し訳ありません」

「どこから入った」

 男は答えず、探偵の後ろに立つ男に顎をしゃくった。前の二人も逆光でほとんど何も見えなかった。計算されている。男の側からは自分のことがよく見えるとホームズは考え、なるべく感情をおもてに出さぬよう努力した。

 義賊の紳士が紙を取り出した。

「貴方の逮捕状だよ――フランスでの殺人容疑がかかってる」

「何かの冗談かね」

 君は誰だ、と聞かなかった。自分が過去に話した言葉をそっくり返された。おそらく怪盗ルパンだ。

 ホームズは古い古い記憶を辿った。フランスの伝記作家にこけにされながらも、秘密は漏らさぬ約束で出版権を与えたあれを。近年の新作は全く話に聞いていなかったが、昔の作品の印税は契約により受け取っていた。その金やワトスンの作り話で農場を買ったのだ。

 ルブランと交わしたいくつかの条件は、自分たちの関係をルパンに知らせぬことになっていた。しかし約束は破られたらしい。

「君はセンスのない冗談が好きだったな。よく覚えている」

「僕は常に真剣です。貴方の言っている彼とは違うかもしれない」

 男は含み笑いをした。自信たっぷりに部屋の様子を観察している。探偵は息を整え、追い詰められていることを悟らせないために笑い返した。

「私はこの数年、サセックスにいた」

「調べはついています。女王蜂の研究論文はなかなかのものでした」

「では、なぜ」

 僕はね、と男は声を張り上げた。


 ――貴方に会うのを楽しみにしていたんですよ。


 声の調子が普通でない。本能的な恐怖に身をすくませる。男は明らかに何かに対して苛立ち、怒っているように見えた。ホームズは相手の立ち居振る舞いから、正体を探ろうとした。先入観は禁物だ。怪盗でなければ――誰なのだ?

「それは光栄だ。引退した老人になんの用かね」

「老人は言い過ぎでしょう。ドイツの諜報機関から大英帝国を守る要請などもある」

「――」

「失礼。ブリキの箱には執筆文以外ないと思ったのですが」

 銀行へ行って、手紙を見たと言うのか。探偵は愕然とした。彼自身暗号や必要書類が足らずに封印を解くのが容易でなかったものを、なぜ男には可能だったのだろう。

「はったりでない証拠は」

「それの本物がありました」

 男の合図で、後ろの男が差し出す。女性の写真だった。「ルパン君が取ってきたのは偽物です。楽器もね」

「どうして」

 ルパン。彼がルパンでないなら、この三人は一体誰なのだ?

 ホームズは息を呑んだ。階段を駆け上がる音が微かに聞こえる。彼は祈った。

 来るな。

 願いも虚しく相棒は扉を開けて、新聞を読みながら入ってきた。探偵は思わず目をつむった。

「ホームズ! 特上の牡蠣とタイムズを手に入れたよ――機嫌を直して一緒に」


 男がカーテンを閉める音が、室内に響いた。






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