【事件簿】


『怪盗と変態7』




 4

 ベイカー街の下宿に戻り、探偵はハドソン夫人を抱きしめた。「ホームズさん! 帰ってきてくださったのね」

「お元気そうでなにより」

 ハドソン夫人は聞き返した。まだ余裕で健在だった彼女は、三軒隣に届くほどの声をださないと聞こえない程度に年老いている。

「また毛が薄くなりました? まあやだ、相変わらず痩せっぽち。貴方そんな顔だったかしら」

 容赦ない言葉にも堪えた。彼女は老眼、難聴に加え、頭の回転がそろそろ弱り始めている。足腰だけは丈夫そうだが、階段を上がる姿は危なかっかしい。

「ホームズですよ。見てください、この鼻を。蜂にやられてさらに大きくなった高慢そうな鼻を!」

「――ワトスン」

 余計なことばかり。してやったりと口の端で笑ったようだが、もさっと生えた髭のせいで見えない。ハドソン夫人はクスクスと笑った。

「珈琲をお持ちしますわ」

「いえ、紅茶を。サセックスの農場から特別な蜂蜜を持ってきましたよ。蓮華だ」

 ハドソン夫人は蜂蜜の瓶を抱え、スコーンもお持ちしましょうと炊事場に消えた。ワトスンが匂いに釣られてついていきそうになるのを、そろそろ時代遅れの杖で止める。

「どうして黙ってた。僕は蜂蜜が大好物だ」

 どこまでプーさんになる気なのだろう。愛あってこそ許せた腹肉も、摘んで熊にやりたくなるほどに成長している。

 ホームズはそのまま階段の上を示した。互いに目を合わせてうなずく。階段の数を数えて、満足した。おそらくワトスンも同じことをしてるはずだと振り返ると、まだ下を見てヨダレを垂らしている。イラッと来て階段を叩いた。

 部屋の前では躊躇した。中に入ると、綺麗に整頓された書類や実験道具などが目につく。そのまま残っているのだ。小説の描写のままに、壁の穴まで。

「気持ち悪い笑い方はやめたまえ」

 呆れ声のワトスンが先に入った。長椅子に置かれている楽器を見る。「これは――」

「触るな、ワトスン。模造品を持ってきた」

「もう売ろう。どうせ弾けやしないのだから」

 金に目が眩みやすいところも変わっていない。爛々と輝く眼差しから守るようにしてストラディヴァリウスを取った。

「信じられん! 湿気で駄目になってるかも……」

「ご心配なさらず。お戻りに合わせて飾ってみただけです」

 手の震えで盆が揺れている。片手で受け取り、女家主に礼を言った。彼女がすべての階段を下りるまで、扉に耳を貼りつけて音を聞く。ホームズはワトスンを口笛で呼んだ。

「おい。スコーンはあとで私の分までやるから」

「キリキリするな。素晴らしい。この短時間で軽食つきだぞ! 冷えてるけど」

「それより例の本だよ、ワトスン」

 ホームズから皿だけ奪って、席へ着く。ハドソン夫人の手料理が並んでいた。ワトスンはナプキンを襟元に押し込んだ。フォークで旨くもないチャツネをつついて、頬杖をつく。

「別にいまさら構わないさ。フランス云々自体、もう昔のことだ」

「私は断じて許さない!」

 子供の遊びだよ、と答えた。例のフランス人はどちらも年が離れている。大人げなく怒れば、馬鹿を見るのは自分たちだ。

「どうして私を呼んだ? なぜあんなものを読ませたのだ」

「気になってね。勝手な行動を取られたら、僕の評判にも傷がつく」

 ショックだった。しかし言い返せはしない。フランスでワトスンが大怪我を負って水を求めても、怪盗に気をとられて無視した経歴がある。昔のよしみでもう少し優しくしてくれてもいいのでは。

「ホームズ。わかってくれ。僕には子供が5人いるし、孫だって3人目が生まれるんだ」

「前の奥さんの子供たちだろう。君の遺産を狙ってる!」

「馬鹿なことを。つまりだね、困るんだ。その……平穏な家庭を壊されるようでは」

「私との友情はどうしたのだ?」

 ワトスンはフォークを止めて、上向いた。てっきり怒り狂ってると思った探偵の眉毛は下がっていた。

「だからここに来たのだ」

「君は住まない。帰る家があるのに、私にだけベイカー街を占拠しとけというのか」

「孫はできたが、三人目の妻とまだ一緒だとは言ってないよ」

「さっ……?」

 ホームズは呻いて、ヴァイオリンを抱きかかえ椅子に倒れた。長年の片想いの正体が、現実逃避故の気の迷いであると実感して立ち直れない。しかしパッと顔をあげた。「一緒でないとはどういう意味だ」

「そのままの意味だ」

 ワトスンは許可なくホームズの分の食事も紅茶も腹に納め、あらぬ方向を見つめて言った。

「君だけここに住めなんて言ってない。僕も住む」

 探偵はぽっと頬を赤らめ、もじもじと体を動かした。気味の悪い軟体動物のようだと感じたが、賢明な相棒は黙っていた。

「煙草をまだやるんだが」

「愛用はシップスだよ」

「何日も口を利かないこともある」

「ブルドックの子犬は残念ながら飼ってない」

 奥さんはどうした、と再度言った。ワトスンはナプキンを外して立ち上がり、窓の側まで行って外を見下ろした。

「余生は一番大事な人と過ごしたいと伝えたのだ。時代は変わった――弁護士を間に挟んで、別れることも可能だったよ」

 カーテンを引くと、長椅子の方へ忍び寄る。ホームズは丸く横になって、捨てられた小動物のような表情で次の言葉を待っていた。

 楽器を手から奪い取り、ひしとしがみつく。互いにしばし幸福に浸った。哀愁漂う肥え太った中年が、ガス灯と暖炉に照らされ笑みを浮かべた。

「農場の続きを試そうか」

 もうめったに呼ばれなくなった名前で自分を呼んだ。探偵はようやく許され、ワトスンの気が変わらぬうちにと隣の部屋のベッドへダイブした。

 高価なバイオリンと一緒に。

 耳の遠くなったハドソン夫人はともかく、その夜忍び込んだフランスの怪盗には、あらぬ声がすべてつつぬけだった。母国で会った印象から、てっきり医者が可愛がられているのだと勘違いしたが。

 傷心の気持ちで弾いた物が模造品であると知っても、そのケースの中にある美人の写真で胸が苦しくなっても、彼は諦めるしかなかった。


 嬉しそうに叫んでいる二人には、他の何も聞こえないのだから。






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