【事件簿】


『怪盗と変態5』



 3

 何も覚えていないバニーが正気に戻ったのは、見たこともない部屋のベッドの上だった。おかしいなと首を傾げる。朝に同居人を訪ねてから、かなり時間が経っていた。小さな窓とベッドと机があり、これはまさかと外を覗く。

 海の上だった。

「……あまりいい思い出がないぞ」

 正確に言えば、二度と乗りたくないものだ。一つ上級のクリケット選手との数多の思い出が蘇る。そのなかでも最悪だ。捕まったとき、陸地であれば運命は違っていたかもしれないと思う。

 船の中であることはわかった。扉を開けようとした途端、ぐらついて後ろに倒れかけた。あまり揺れないことから察するに、それほど小さくもなさそうだ。扉は自動的に向こうから開いて、腕を取られた。「おはよう、バニー」

「ひっ」

 思わず息を飲み、ごくりと喉を鳴らす。もうおいてきぼりは懲り懲りである。あるいは目の前で自殺。――自殺? ラッフルズに人生を閉じる信念など本気であるのか。

 いっそ飛び込んで助けを待つかと悩んだ。

 ラッフルズは生き生きとした目で手に持ったグラスとワインとソーダ製造機を示した。ベッドにさっさと座る。ベストだけの軽装だった。

「賭けごとをしないか! つまりだね、船が定時からどれだけ遅れるか。逆にどれだけ早く着くか」

「いや、それは私が不利だ」

 どうして。と目を丸くするので、曖昧な笑みを返した。もし仮に三十分早くつくと言えば、銃でもって船長を脅したりしかねない。

「さすがの僕でもそれはないさ。港に着いたらすぐ捕まるだろう」

「――」

「そうだね、遅れるほうに賭けたいなら君を突き落として助けを呼ぶかな」

「それは」

「どのみち助からないと思うけども。この早さではね。ま、そうなれば賭け金を払うのは僕だから、蘇生させるため速く進もうとなれば一番いい結末を迎えられるわけだ」

 悪びれはないが、悪寒がする。どちらに賭けても、殺しても死ななそうな手頃な人材というのは自分だけではないか。

 別にラッフルズはバニーの死を望んでいるわけではないはずだ。元はといえば自分が博打で多額の借金を負うことになった故の、泥棒稼業の始まりだったのだし。自分への愛情がなければ、何か手を貸してやろうかなどと思いつきもしなかっただろう。

「ラッフルズ、あの」

「英仏海峡。旅行はおしまい」

「いや……まあどこでもいいんだが」

 君がいるところなら、と言い返そうとして、相手が頓着せず小棚を開けて炭酸を作ろうとするのを見守った。こっちには栓抜きとボトルを渡してくる。考えもせずに――正確には狭いベッドの隣合わせで少しムラッ気を起こしつつ――コルクを抜いた。

 潮風で張り付いた髪から目を離そうと、なんとなくラベルを見た。ふむ。いい酒だ。しかし意識は扇情的な相棒に惹き寄せられている。心なしか肌が蒸気しているし、目は潤んで唇は濡れていた。

「乾杯」

「昼間から――」

「祝いごとがあったからね。今度こそあの探偵に会える」

 口に少し含んだだけで、もう堪らなくなった。大きく揺れた拍子にグラスを捨て去り、手首を掴む。ベッドに倒されても、不意を突かれたような顔をするだけだ。赤い液体がシーツに広がる。

「きみ、最近ホームズのことばかりじゃないか」

 首筋に唇を押し付けた。汗の匂いだ。何か運動でもしていたのか?

「あ……ふふ。ん」

 体を割り込ませると、身じろぎしてタイを解く。なんだ。誘っていたのだ。酒だとか船だとか、状況としては絶好の機会を逃すはずはない。どれくらい肌を合わせてなかったか数えようとしてやめた。

「それに、ライバルとか」

「ルパン君はね、探偵デュパンと似たような名前だから可愛がってみたいじゃないか」

 リュパンと歌うように言っても、発音はまるで違う。ラッフルズが怪盗や探偵にこだわる裏側を、自分だけは知っていた。

 骨盤がごつごつ当たって痛い。体格では自分のほうが劣るのだから、協力してくれればいいのだが。肩をはだける間も、されるがままでおとなしい。不気味だ。何か裏があるのかも。躁鬱的な性格は探偵以上で、別人のように見えることもあるほどだった。

 愛撫と言えないような即効力で股間を探るが、全く反応していない。「私に飽きたのか」

「馬鹿なことを。バニー。君に満足したことなど一度もないさ。飽きるためには執着が必要だろう」

「誰でもいいのか」

 ちょっと迷ったように眉を寄せ、鼻で笑う。シャツを引きちぎりたくなった。

「そうかもしれないな。さて、やるのかやらないのかハッキリしてくれ」

 挑発している理由にも気づいている。こうやって煽って、激しく抱かれれば安心して眠りにつくからだ。

 飄々として、こだわりなく生きていた若い時分はよかった。逮捕されようと、万が一どちらかが死のうと、不道徳な仕事に熱中していれば。

 あの探偵でさえ年を重ねるごとにそれなりに丸くなったというのに。相棒は相変わらず自暴自棄で、目が離せない。ときおり見せる物悲しい眼差しの先には、おそらく自分などいないのだとバニーはため息をついた。

「その愛するルパン君はどうした」

「わかってないね。彼は僕の貴重な玩具だ。心配しなくても隣室で寝てるよ」

 本気なのは探偵だけかとグッと喉をつまらせる。この職業を始めたとき、またシャーロック・ホームズは有名になっていた。対抗心でなく、何かしら思うところがあって泥棒を始めたのだ。お近づきになりたいとか!

 バニーは無言でラッフルズの上から退くと、乱れた上着を着なおした。抱かないのかと渋い顔をして、煙草タバコと言うから箱を投げ付ける。

「玩具ね。私は君の何なんだ?」

 憤慨しながら外へ出た。隣の小窓を覗くが、誰もいない。向かいの部屋かと振り返る。軽く揺れる度に壁に手をついた。

 ンー! ンー! と牛の鳴き声みたいな音が漏れている。バニーは焦って扉を開けた。

「ダンドレジー? おい、大丈……」

 部屋の中は同じ構造で、ベッドを見てすぐバニーは二度目のため息をついた。彼はなんと言ったっけ。とにかく賭けには自分でなくとも、もっと手頃な人材を用意していたらしい。


 ラウールはベッドに縛りつけられていた。





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