【事件簿】


『怪盗と変態3』




 2

 へくちんと探偵はクシャミをした。

 ああしまった、寝床に入る前にきちんと服を着るべきだったと後悔する。なにやら悪寒のようなものが背筋を走って仕方ない。よもや自分を狙う巨大勢力の陰謀でもあるんじゃないかと首を捻った。

 ちなみに一度はサセックスに農場を構え、蜂の世話をみっちり五、六年ほどやってはみたものの、あまりの退屈さに耐え切れず、結局引退した稼業にせいを出すことになった。

 牛羊鶏。

 まあそういったものにも日々の事件というのはあり、確かに蜂の生態も素晴らしく繊細で優雅。かつ極微に至るまで計算されつくしたその構造が、探偵の心をすべて支配せんばかりに熱狂させたのだが。

 ロンドンの街に集まる犯罪の交響曲には敵わない。

 早く引退しすぎたことに、強く舌打ちした。しかしあの時はもう他のことは考えられなかったのだ。長年女房のように連れ添った同居人の医者が二度目の結婚をして、恋破れた青年のごとく探偵は田舎へふさぎ込んだ。

 人生ははかなく脆いものだ。幾度のクリスマスを大きなモミの木と共に過ごしたかわからないが、帽子もヤマシギも宝石もいらない。

 家族と言えるのはあの男だけなのだから、一緒に過ごしたいと悲しくなった。

 サセックスに現れる日が来るとはまさか夢にも思わなかったのだ。





「ホームズ!」

 丘の上で寝転び、ペンで蜂に印をつけていた。どこの蜜を吸ってどの領域に戻ってくるのか。単調な作業のせいで、今聞いたのはおそらく幻聴だな。耳まで遠くなったかと、目をつむった。

 悲しい中年の弱々しい息のせいで、蜂が飛んでいってしまう。自分は飽きた。なにもかもに飽きた。このまま寝てしまえばと考えるが、この地域の豪雨は突然降ったらひとたまりもない。

 聞き覚えのある声が再度自分を呼んだが、馬鹿な妄想を断ち切ろうと寝返りを打った。

「ホームズ! 僕だ!」

 首だけ回して、後ろを振り返る。クマのプーさんそっくりの男が、丘の下から駆け上がってきた。よたよたと右へ行ったり左へ行ったり。可愛い子兎がちょっと目の端をよぎったりもしたが、探偵の視線はプーさんにくぎづけだった。

 ――ワトスン。

 また太った? ああ、自分の兄ほどではないが。

 まあ元々が痩せていたのは二十代までで、残りは食べる寝る少し走るの生活。机にかじりついて自分の伝記を書くのが忙しく、それが思わぬ収入になればまた食べるの繰り返しだったから、体型が変わっても当然なのだが。

 ホームズは半身を起こし、自分がアングルのグランド・オダリスクか何かのように見えればいいなと期待を込めて待った。

 しかし探偵は中年になっても一向に肉のつかない自分の柳腰を思い出し、落胆した。彼は自分の見た目に合わせたふっくらとした女性が好みだ。諦めたはずの淡い何かが心を絞る。きゅうっと心臓が痛くなり、切ない気持ちに眉を寄せた。

 むしゃぶりつけるような肉体があればよかったのだが。大草原に横たわり、白いドレスなど着てアハハウフフと駆けられるような体が。

 熱い鼓動が早まり、彼を待った。顔を真っ赤にしているが、それは単に全速力で丘を上がってくるからだろう。

「ワトスン。ゆっくり走れ!」

 すでにゆっくりである。駆け降りてやろうと自分の中の優しい天使のような部分が囁くが、あいにく長いこと彼らのお世話になっていなかった。アアッと悪魔のホームズに押しやられ、無惨にも消えた神の使い手からあっさり逃れる。

 かまうものか。私を置いて結婚した男のことなど。それも二度にわたって!

「ホ、ホーム」

 ブチブチと草を抜きまくり、知らないっとまた尻を向けて俯せた。畜生。はあはあ言っても助けてやらないぞ。

 ちょっとした楽しい事件があったとき、手紙を書いたが彼は来なかった。懇意にしてる男を助手に解決しても、あの沸き上がる興奮の半分も味わえない。


 ――ワトスンでないと駄目なのだ。






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