【事件簿】


『怪盗と探偵(中編)』




「ラッフルズ」

 自分の名前すら忘れて、もはや昔の面影をなくしたバニーが言った。私の名前は覚えているのだ。私の顔も。それがどんなに嬉しいことか、彼は知るまい。

 泥棒業に身をやつしていた若かりしあの頃の彼は、女装させても様になるほど線の細い、美しい男だった。親友を放ってイタリアに逃げた私を、責めながらも愛し、助けてくれた。

 祖国に帰ってきたとき、私は愛する人を失った衝撃で白髪となっていた。黒かった髪を押しんで彼の撫でる指先が、震えて想いを伝えたのだ。

 君を赦すと。

「なあ、君。自転車はもう嫌だ……あれを漕ぐのは骨だった」

 バニーは思い出したように口ずさんだ。

 ときおり昔のことを懐かしく感じるのか、皺の深くよった手を握ったり開いたり、忙しく目線を動かしている。

「うん、わかっているよ」私は優しく答えた。

 病院のベッドに寝たきりの彼が、明るい芝生のある公園のベンチだと、こうも饒舌になる。もう幾らも生きられないからだ。

「なぜ」バニーはハッとして言った。「なぜ、本に挟んだのだい。彼女は一人でも生きていけるよ。僕なしで生きていたのだから」

 仲を取り持った相手の話だ。

 もう本当に昔のことである。古きよき時代の名残で、バニーの頭はいっぱいなのだ。手元の本を置いて、眼鏡を外した。

「君はどうなのだね。ひとりで生きていけたのか」

「……君が戻ってきたからね」

 クスクスと笑って、木陰の鳥を指差した。「君の博物館はよくできていた。あれも飾ろう、腹の中に宝石があるかもしれないよ。青い宝石が」

「バニー。君は泥棒なんて、やりたくはなかっただろう。いつだって僕に付き合っていたのだ」

 バニーは少し考えてうなずいた。「そうだ、ラッフルズ。僕らはホームズとワトスンのようにだってなれた」

 汚名をような仕事でなくても、生きるに相応しい興奮する出来事があったというのだ。

 私は深くため息をついた。「アルセーヌ・ルパンほどには名声も上がらなかったしな」

「ちがう、ルパンはひとりで仕事をする。僕らはふたりで泥棒をする」

 バニーは少し屈んで、居心地が悪そうに体を揺すった。私の膝にある本を取り上げ、芝生の上にぽんと投げる。

「組織はあっても、彼はひとりだ。だから女が必要で、それにもかかわらず一人を愛し続けることができないのだ」

「架空の人だよ、バニー」

「誰のことだい? ああ、ルパンか。君のほうが素敵だとも」

 愛しているよ、と言ったので驚いた。バニーは著作で私との友情をことさらに美化し、そのように書くことが何度かあった。口を通して聞いたのは初めてで、思わず顔を覗き込む。年老いた男がそこにいるだけだった。

「僕らは二人でやってきたのだ。ラッフルズ、探偵は死んだかい」

「そうだ。彼は死んだ。架空のひとでないと言ったろう。あっちは恐ろしいぜ、巨像だ。僕は疲れた」

 わかっているよ、ふたりでやってきたのだと続けた。

「ああ、バニー。ホームズと、どちらを愛していたかね。僕はシャーロック・ホームズのまま生きていくべきだったのか」

 バニーはうめいて、周りを飛ぶ蜂を示した。「私が死んだら、今度は養蜂家になりたまえ」


 私はうなずき、滝での会話を思い出した。人生を変えてくれた、あの少年の言葉を。






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