【事件簿】


『教授と私と事件(中編)』




 初めて招かれる恩師の屋敷は、私の実家よりは大きかったが、想像したような大豪邸ではない。街に面した部屋数の少ない下宿に似ている。

 先生は帽子かけに外套をかけ、狭苦しい廊下を横切り奥の階段を上がろうとした。

「待ってください!」

「うん? ああ、そこのソファでくつろいでくれ。私はとりあえず」

 最後まで言わせなかった。手すりに置いた手を上から握り、いぶかしげな先生を階段に座らせる。右スボンの裾を上げると、先生はうめいた。

「寒いだろう。まだ蝋燭しかつけてない。先に火を」

「すぐ済みます」

 上から降ってくるため息を無視して、暗闇でもわかるほど腫れ上がる臑を撫でた。先生は、声こそ上げなかったが、痛む足に顔をしかめた。皺が深さを増したのに、私はつい頬に触れそうになった。

 自分の咳ばらいが部屋に響き渡る。鞄を探って手当てをし始めた。「包帯くらいしておけば、こんなには」

「きみとの約束があったからだ。自分から言い出して遅刻はないだろうと思ったのだが……結局待たせてしまった」

「いくらでも待ちますよ」

 先生の誘いなら、と口を滑らしそうになった。つい強めに包帯を巻いてしまい、拳で肩を殴られる。

「それでよく卒業できたな。不器用すぎる」

「体を切り開くときさえ手がぶれなければいいんですよ」

 違いない、と先生が笑った。在学中に数えるほどしか見たことがない笑顔を、今日は惜し気もなく眺めている。私がほうけていると、先生は立ち上がった。一階で料理をすると言う。

「卒業祝いに上等のワインを買ってある。ただで食事にありつけるのだからきみも手伝うんだ」

 先生は今朝買い付けたという鶏の半身を持って、下りてきた。清潔なシャツとベストを身につけ、こざっぱりとした恰好になっている。

 急に自分の姿が気になりだした。一日中死体と向き合っていたせいで、服に汗が染み付いていた。

「ドイル」

 新品ではないが、とカフス一式を手渡される。窓際で付け外していると、先生の匂いがした。洗って返すふりをして、自分のと替えてしまおうか。

 久しぶりの料理は、先生より私のほうが手際がよかった。弟や妹が多いので、家事には慣れている。没落仕切ったドイル家に、住み込みの料理人を雇う金はなかった。家政婦はまずい食事しか作れないので、私が水場に立つこともあるのだ。

 先生は鶏を切ることに集中してもらった。肉を削ぐ年期は私よりずっと上だ。付け合わせの野菜を用意するうちに、先生は手を拭いて笑った。

「家内が生きていたころは、ここに近づくことさえできなかった」

 普段は通いの家政婦がいると言う。若いですか、年寄りですかと聞いたら、中くらいだと答える。

「なぜそんなことを聞く。さあ、遠慮せず食べたまえ」

「ほとんど僕の功績ですが」

「けちなことを言うな。食事の後に話がある」

 さらりと言われた言葉に、私は身を縮めた。

 申し訳程度の祈りを捧げて、先生は勢いよく食べ出した。不信心をからかってやろうと思ったのだが、私も腹はすいている。

 食事の席で相手を楽しませることにかけては、先生以上の人物はいない。新しい医学論文から紳士の間で流行しているの拳闘会まで、幅広い話題が彼の口から漏れた。

 指先を合わせる。笑うときに高い鷲鼻に触れる。外したナプキンを食べ終えた皿に乗せても気にしないのに、塩の在りかは砂糖壷だとこだわる。

「先生を探偵小説にしたら面白いと思いませんか」

「探偵小説」先生は首を振った。「きみはおかしなものが好きだ。事実や知識を捩曲げて、ひと時の夢物語に浸るのか」

 私はムッとして、皿を脇に避けた。

「現実にあったことをそのまま書く気はありません。先生を題材にして有能な」

「書き物をしないとまだ暮らせそうにないかね」

 責められているようだ、と私は目を伏せた。「暮らすだけなら大丈夫ですが、療養所の父に仕送りをしないと。卒業したので二度目の航海に出るつもりです。帰ったらまた短編を書いて売り込む」

「解剖学のラザフォード教授をモデルにしたまえ。彼は面白い」

「僕はあなたが書きたいんです。ラザフォード教授は探偵小説より冒険小説の方が向いている」

 先生は目を合わせて、「私が話したかったのはそれだよ」と静かに言った。

「小説は趣味にして、医者としての仕事に専念しなさい」

 こうなると楽しい夜のひと時が、ただ薄暗い部屋で取る食事に戻ってしまう。私は立ち上がり、窓際に寄って路上を見下ろした。ひとけの少ない道に霧が走り、ほとんど何も見えない。窓辺に先生の顔が映った。

「あなたは僕の父親ではない」

「しかし、きみには彼が必要だ。正しい道を歩めるよう教え、前を行って見本を示すような人が」

「何が正しいかあなたは知っているのですか」

 私は怒りを抑えて、曇る窓に映る顔だけを見つめた。特徴的な鼻や白髪混じりの黒髪、射るような眼差しが悲しげに細められるのを。

「知ってはいない。その道は険しいだろうに、行くなと言ってやる人間がきみにはいないからだ」

「僕は書くことが好きです」

「仕事にすれば嫌いになる日が必ず来る。今のきみにそれしかないのなら、ほかを知るまでやめなさい。それでも書きたいのであれば」

 先生は頷いた。

「書くことを誰からも奪わせてはならない」





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