【事件簿】


『探偵は如何にして婚約したもうか』




 豪華な美人が花瓶に花を活けていた。流れるような金髪を綺麗にカールさせ、抜けるような白い肌。

 ビスクドールも裸足で逃げるほどの美少女は、探偵の煙草を取り上げた。低く魅惑的な声が男の耳を撫であげる。彼女は煙草には口をつけなかった。淑女のたしなみである。

 その姿を見ながら探偵が言った。「夜の生活が一分以内で終わるような僕と結婚したがる女なんて、君くらいのものだよ」

 彼女はにっこり笑った。

「そのくせ回数はやたらと多いし、どこの下級娼婦に手なずけられたのか無駄に激しいし。それからいささか変態じみた赤ちゃんプレイがお好みですものね」

「なぜだろう、今日は灰色の頭脳がひどく痛む。少し黙ってくれないか僕の素敵なオッパイちゃん」

 豊満な胸に探偵が指を走らせると、ふふっとのけぞった。ホームズは彼女の横の本を取るつもりだったと言わんばかりに知らん顔を決めこんだが、そうでないことは明らかだった。

「もう……っ。そんな言い方はやめてください」

「わかったよ。僕の可愛いオシリちゃん」

 探偵はにこりともしなかった。伸びきっている鼻の下がだけが彼の偉大なる知性を台無しにしていた。聖なる儀式の前触れだ。アドラーとかいう女の写真は、糊付けの袋とじにしてまだ引き出しの中だが、始まる前に終わった失恋の記憶は遠い過去だった。

 なぜ恋愛を馬鹿にしていたのだろう? 素人童貞をコンプレックスに思っていたからか? それこそ馬鹿馬鹿しい。女は女であるというだけで人類の宝だ――おっぱいとお尻が大きければ他に言うことはない。

 探偵は幸せに酔っていた。


***


「オッ――婚前交渉に励む男の半分は無計画のろくでなしと言うが、ひどい有り様だ」

「自分の身が可愛いければ、それ以上言っては駄目だよレストレード警部。あの地獄耳は我々が扉の向こうにいることも知ってて見せつけているのだ。ホームズは彼女にメロメロだ」

 221Bの扉の外では二人の男たちが折り重なり、我先にとばかりに中の様子を伺っていた。共にごくりと生唾を飲んだ理由は、ガウンからにょっきり生え出た探偵の長い脚のすね毛――ではなく、女性のぷりっぷりの胸元に釘付けであった。

 その上に乗ってる頭も可愛い。超かわゆい。なぜあの朴念仁にあんな美少女が。頭の中で繰り広げられる夜の生活。淡白なイギリス人の唯一の楽しみである妄想癖はとどまるところを知らなかった。

 レストレード警部が、上から垂れてくるワトスンの汗を、抜き取ったスカーフで拭きながら言った。

「それは見ればわかる。しかし目もあてられん……男が婚約という魔の儀式で骨抜きにされる実例は山ほど見てきたが、オッパイは別にして、なぜ彼女なんだ?」

「裏表がなくわかりやすい点が気に入ったようで。若くて素直な点も。長期的に付き合うには馬鹿のほうがいいと」

 身も蓋もない。しかし――でぶっちょではあるが医者のワトスンと、ちびではあるが警部の自分に、なぜ美少女がなつかないのか。生活の半分以上がジプシーであるホームズにさえ、女ができたというのに!

 二人は既婚者ではあるが、世間で流行りの年の差婚には飽き飽きしていた。腹立ち紛れに少女の五十年後を想像するが、美少女は歳を取ってもやはり美少女だった。

「――」

「頼むから私のほうを見ないでくれ。先月メアリーに商売女の件がバレて半殺しの目にあったのだ……他がいるだけマシだって? いやいや、それはそれで大変だよ、きみ。女性同士の修羅場ときたら、殺人事件の現場にいるほうがずっと楽なレベルだ」


***


「午後は買い物に付き合ってくれますか」

「先月ベイカー街の下宿が丸三つ買えるくらいの毛皮を買ってあげたろう。おかげで僕の虎の子はすっからかんだ」

「だってそうでもしないと、おクスリやめてくださらなかったでしょう。それに忙しくて忘れちゃったのですね。来週は貴方の誕生日ですよ」

「むむ」

 完全に忘れていた。長いこと男所帯だったせいと突発的な仕事のせいで、ほとんどの記念日はどうでもいいただの日付になっていたのだ。

 しかし――。

「今年は……一緒にお祝いできる?」

 甘えたような微笑み。探偵は自分の誕生日のお返しには、下宿丸ごと七つ分くらいの宝石を彼女に買ってあげようと決意した。


***


「財布は完全に奥方の尻の下だがアレはいいのか」

「まだ奥方未満」

「なおのこと悪い」

「彼の兄が国家予算級に溜め込んでいるから大丈夫だろう。それに彼女も宝飾品自体に興味があるわけじゃないようだし」

「……どういうことだ?」

 ワトスンはかなり声を落とした。「ああ――つまりその、彼が私にくれたアメジストのタイピンと同じ」

「転売か。聞かなかったことにしよう」

「ブリキの箱と一緒に銀行に預けていることになっているんだから、くれぐれもお願いしますよ」

 警部はうなずいた。室内を覗きなおすと、聞こえているのかいないのか、探偵と目が合った。ニヤリと笑う頬の辺りが非常に気持ち悪い。しかし一つ気になった。

「たしかに彼女はずいぶん質素な身なりだな。派手に着飾れば社交界の華だろうに」

「そこが不思議なところなのだがね」ワトスンは言った。「地域貢献とか慈善事業を含めた商才に長けているから、全財産を彼女に預けておけば、島一個は買えるんじゃないかという話だ。人は見かけによらない」

「亭主よりよほど頭が切れるわけだ。タイピンが賭け事で溶けた君とはえらい違いだ。いやなに、名探偵殿はもう知っているようだから、そっちは心配するな」


***


「さて、では着替えるとするか」

 探偵が自室に戻ると、彼女はくるりと振り返って扉を見た。二人の紳士が身をこわばらせる。つかつかと彼女は机に歩みより、ポットに何かの錠剤を足した。医者にはそれが、臭いのしないネズミ取りだと即座に理解できた。

 そのまま適当に選んだ紙に走り書きをして、自分たちのほうへ寄ってくる。二人は慌てたがすでに遅い。彼女は紙をこちらに見せた。


『馬鹿という男はもれなく馬鹿。』


「……」

「……」

 靴下と紅茶はどこだ、ハニー! と叫び声が響き、彼女は微笑んだまま返事をした。

「珈琲ならありますよ。灰色の頭脳を痛めない、特別美味しいのが」

 警部と医者は顔を見合わせた。しかしどちらも何も言わなかった。医者は探偵に金の借りがあったし、警部は未解決の事件を揉み消す際に、探偵に弱みを握られていたからだ。



 しばらくして探偵の訃報と、彼の兄の結婚招待状が同時に届いたのは言うまでもない。



End.




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