【事件簿】


『探偵は如何にして失恋したもうか』




 夜の戸張がおりた期待に満ちる静けさの中で、酒を飲んだ。出会ったころの規則正しい生活とは違い昼夜がすっかり逆転しているホームズ。不規則だった日常を努力と根気と適度な運動で改善し、愛する女性と結婚する予定を控えた私。

 いつも通りの構図だ。今日が最後の夜だということを除けば。

「ホームズ。僕の目は節穴だと思うのか」

「おめでとうと言えない理由について、なぜそこまで曲解されなくちゃいけないのだ。華麗なる独身生活が紳士の間ではもてはやされてるというのに」

「流行に流されてないふりをして実はそれに万年振り回されている君とは違う。僕は流行を追いつつも根は古風なんだ。男の本能、家庭という安楽地に落ち着きたがっている!」

「そうかい。結婚後は可愛い依頼人とせいぜい仲良くやることだね」

 私は怒りを抑えきれず、グラスを置いてドアノブに手をかけた。待てよ。

 可愛い――依頼人?

 ちらりと振り返る。タイムズを食い入るように見つめたまま、彼はパイプを吹かし続けた。

「もしかして、ホームズ。きみ」

「ワトスン。君の言いたいことは大体わかるつもりだ。まず一年間に何人の年若い御婦人たちが、そこの扉を出たり入ったりしたか正確に数えてくれ」

「華やかな香水や、茶色の後れ毛や、倒れた彼女たちの美しい足に懸想したことが一度もないとは言わせない」

「あるとも言ってない」

 疑いを消さない私の視線にホームズは新聞を閉じ、口の端を持ち上げた。「そうだね――君とまだ会う前の話だ」

 私は少し悩んで、彼の脇にあるソファに座り直した。

「僕は事務所を立ち上げたばかりの新米の諮問探偵だった。依頼人は同じ年頃の女性でね。当時流行だった水色のフリルいっぱいのパラソルを持ち上げて、ニッコリ微笑む彼女の薔薇色の頬に夢中になったものだ」

「君の初恋か」

「残念。僕の初恋は『家庭教師のメアリー』さ。パラソルの女はアイリーンとしておこうか」

 私の開いた口に向かって指を立てる。閉じればうなずき、さらに続けた。

「アイリーンとのデートは実に楽しかったよ。仕事をそっちのけで女に熱をあげることの恐ろしさは彼女が教えてくれた。僕はあの人――彼女と同じくらい美しかったアドラー――のときと違い、完全に恋の熱に浮かされていた。そのおかげで彼女の嘘を見抜くことができたんだ」

 ホームズは言った。「彼女のことなら何でも知りたかったからね。パラソルの女は共犯者の愛人と一生刑務所暮らしだ」

 私は呻き、首を左右に振った。「――家庭教師のほうはどうなったんだ?」

「ワトスン。メアリーは恰幅のよい男が好きだった。十代の貧弱なシャーロックは努力して叶わないことはないと信じていたから、たくさん食べたのだ。結果はご覧の通りさ」

「君の兄さんは君より縦も横も……」

 それ以上言うなと目をすがめる。これは根が深い痛手だと、他者には理解を求めぬ尖った鼻が言っていた。「わかるよ」

「マイクロフトは僕の気持ちに得意の観察力で気づいていた。更に我々は年が離れていたから、彼は仕事で滅多に家に帰らぬ父の代わりに僕の不器用な初恋をそっと応援してくれた」

「うまくいきそうだな」

「先にいったはずだ、ワトスン。彼女は太った男が好きだった。そして僕はいくら食べても肥れないんだ。当時は最新の体重管理療法と言われた、催眠術さえ試したんだよ。スコーン一個に対してジャム一瓶をかけたり、オートミールの中に肉の脂肪を山ほど入れたり――僕が根をあげれば、兄が残りを平らげてくれた」

「そんな。まさか」

 ホームズは情けなそうに眉を潜めた。

「メアリーは兄にプロポーズした。女性でありながら理想の男に出会ったチャンスを逃さず、自ら結婚を迫ったのさ。その積極性は僕の好むところではないが、見る目は確かだね。相手が僕なら……もうよそう。蝋燭が消えかけてる」

「ホームズ」

「慰めの言葉は要らない。兄さんは当て馬となった僕の気持ちを踏みにじるようなことはしなかった。家族同席の朝食の席で不釣り合いな会話をしたからといって、女性に恥をかかせるような真似もね。答えになっているかな」

「ああ。充分すぎるほどだよ」

「モースタン嬢に関しては君の思い過ごしだ。僕は自分の美意識に正直に生きている。彼女は可憐な仕草がいじらしくて素敵な女性だよ。君にお似合いだ」

 私はうなずいた。注がれた酒は少し苦い。「それで、全部なのかい。うまくいった話は?」

 ホームズは私があまり呑まないのを見て、炭酸製造機で酒を割ってくれた。ソーダは予想に反してさらに苦かった。

 彼は窓際に寄りカーテンを閉めた。

「全部だよ……ああ、もうひとつあった。これは一番最近のやつだな」

「良ければ聞かせてくれ。最後の夜だ」

 私は眠気と戦いながら言った。結婚準備のせいで疲れているようだ。

「人生のパートナーと言ってもいい存在だった。僕の偏屈さ傲慢さ皮肉な面のなにもかもに目をつぶり、自意識の強さを代表とする酷い部分まで受け入れてくれたのだ」

「そんな女性が居たのか。むしろそんな女性この世に居るのか――自分のものにしたまえ――手遅れになる前に――」

 私の指から滑り落ちそうになったグラスを、ホームズが手に取った。飾り切りされた側をじっくりと見る。

「うん、まあ。胸が扁平な代わりに腹が出そうな兆しがあるのと、僕より酒が強く聞き上手なせいで話をせがまれ、強行手段に出るしかないことを除けば理想的なんだがね」

「今夜は寝かせないさ――おいでホームズ君――」

 ホームズは霞む視界に両腕を伸ばした私を見て、苦笑した。「三日も裏表を替えて履き続けた靴下を洗う気にはなれない。お断りだよ」

 満更でもなく私は微笑んだ。彼の下穿きは五日目だ。家政婦を雇うから問題ないと頭の中で唱える。


 盛られた薬のせいで、話の全てを思い出すには五十年かかったことを記しておかなければ。


End.




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