【事件簿】


『探偵とこいぬ(後編)』




 子犬がかぽと吐いた。ホームズの手が一瞬止まる。汚した膝に目もくれず、彼は精気のない子犬の目を見つめていた。

 私がやろう、とホームズの肩を掴む。安楽死のため注射を打つことで患者を手にかけたこともある、大丈夫だと言った。

 ホームズは目を閉じた。

「悪いがワトスン。こいつは僕を愛していた。君に隠れて骨をやるのが、僕の役目だったおかげでね」

 手をかけるなら、それは僕の義務だと言った。

 ハドスン夫人が逆の肩に手をかけ、お待ちになってと囁く。毛布を椅子に置き、近くのテーブルから朝食後に片付け忘れた塩の蓋を開けた。

「古い風習をご存知ですか」

 魔除けのまじないです、と火かき棒で暖炉を掻き回した。「憑き物があるなら、夜の炎でわかるんですよ」

 火が大きく滾ると、一瞬腰を丸くして胡座をかいているホームズの影が、濃く長くなった。

 子犬がここに至って初めてウゥと鳴いた。

 ホームズと私は子犬を見下ろし、ハドスン夫人に向き直った。「生き霊だけで充分迷惑してるんだよ。生きてる人間だけで」

「家族で一番弱い小さな子供や動物が、災難と一緒にすべてを持って逝くんです」

 どうすればいい、と大の男が二人掛かりで聞いた。私が驚いてホームズを振り返ると、彼はひとつうなずいた。

「受け入れることで助かる魂があるなら、僕だって神に祈るさ」

 深く抱き留めて立ち上がり、ホームズの長い足が暖炉の脇に行く。影はいっそう深みを帯びて、私はつまらぬ幻覚を見た気がした。

 何本もの黒い指が彼の肩にしがみつき、離して楽になろうとしないのを。

「永くなさそうだ。重みが増した」

 いいですか、とハドスン夫人が塩を目一杯に掴み、暖炉に投げた。

「『悪魔よ去れ』と三回です。言葉は言葉ですからね。信じて念を込めないと、なんの力も持たない」


 私には子供のお遊びに思えたが、ホームズは一切文句を言わなかったので、彼の差し出した片手に塩の瓶を空けた。絨毯に落ちた白い粉が風に舞う。

 扉も窓も開いてはいないのに。

 ホームズが塩を暖炉に焼べ、力強い声でゆっくり言った。


Go,evil spirit.

Go,evil spirit.

Go,evil spirit.


 三度目をこの耳で聞いたとき、何が起こるとも考えてはいなかったので私はギクリとした。


 扉が一度音を立てて開き、勢いよく閉まったのだ。

「偶然ですよ」静寂を破ったのは、やはりハドスン夫人だった。

 閉まった扉を見て、全員が安堵の息を吐いた。「見えない世界の不思議な出来事は、こじつけずにわからないままにしておくのがいいでしょう」

 子犬を見ると、もう息をしているのかいないのか、ホームズの腕に抱かれたままピクリとも動かずにいた。

「死ぬのか……」

「ワトスン」

「僕は医者であって」

 無力感で堪えられないことがあるよ、と言った。

 まだ逝くときではないらしいよ、と彼が息を吹きかける。

 子犬は決して美しいとは言えないが、愛嬌のある顔で私をちらっと見た。私はふと思いついた。「結婚するんだ」

「可愛い依頼人とね。何を言い出すんだ?」

「ここにいられない」

「――わかっているさ、ワトスン」

「ホームズのことは、君に任せたいんだがね」

 子犬でなくホームズがうなり、ハドスン夫人が後押しするように続けた。「まだお役目が残っているでしょう。コカインの壜を発見するように、しつけようかと話したではないの」

 短い尻尾を少し振って、子犬は目を瞑る。ホームズは柄にもなく慌てたので、私は子犬に触れて、目を開かせた。

 私は息を吐いた。

「医者の判断から言わせてもらうなら寝ているんだよ。疲れたんだ」

「僕も疲れたよ」

 ホームズは支えていた子犬を私に寄越し、ハドスン夫人の世話になって着替えた。

 しかし口とは裏腹に一晩中、子犬の相手をしてやったのだ。

 その日永遠ではない眠りについたのは、子犬だけだった。





 私は朝方に知り合いの獣医に電報して、往診してくれるよう頼んでみた。そのころには夜の姿はなんだったのだろうと思うほど、子犬はすっかり体力も戻り、ホームズの革靴をかじっていたのだが。

 肺炎を起こしていたようだと医師が告げた。子犬は一度か二度薬を貰って、驚異的に回復した。

 名前通りの犬だということで――ラッキーというのだが――幸運の犬としてすぐに貰い手がついた。

 貰い手。

 ホームズは私がベイカー街を去ることも理解していたが、子犬はこれ以上飼わないと言ったのだ。

 私は残念に思い、口を挟んだ。

「僕と婚約者が飼うさ。闘犬だから、診療所の番犬にしてもいい」

「君は結婚したら、この冒険は辞めるつもりかい」

 私はホームズの言っている意味がわからず、首を傾げた。足元で丸くなって寝そべっている子犬は、別れの時をまだ知らない。

 ホームズは煙草の煙を吐き出した。

「また犠牲になるかもしれないよ。君の所でもし赤ん坊を授かったら、その時はまた――返してもらえばいいさ」

 子犬はお断りだと言うようにそっぽを向き、ホームズはまだ吸いかけの煙草に気づいて揉み消した。

 貰われた先で少しでも長生きできるように。

 私はブルドッグの子犬の存在について書いたことがない。それはホームズにこの事件を思い出させたくないからなのだ。

 可愛い子犬を、いつかまたベイカー街に迎えたいと思えるようになる日まで。


 探偵の足元には、何もいなかったと書き続けるだろう。


End.




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