【事件簿】


『ホームズと探偵都市1』




 1


 汚染霧の渦巻く午後のある日。私は戸棚の奥を漁っていた。

 私の料理の能力は及第点である。どこぞの家事炊事失格探偵とは訳が違うのだ。奴はオリーブオイルをかければ何でもイタリアンになると思っている。フレンチではワイン。大陸では唐辛子。

 国内なら雑巾汁といった具合に。

 掃除がこれまた天才的ときてるから名誉ある称号は格上げしよう。日常生活無能探偵。単調な古代神話のなかの人物の味付けは完璧である。私は皿を手にほくそ笑む。
 鱒の酢漬けが残っていた。上出来だ。問題は奴の眼を盗んで、これをいかに調理するか。

 いや、駄目だ。

 皿に移せば皿を洗うはめになる。私がではない――そしてあのいまいましい推理を奴が始めるのだ。洗い物をしながら例の単調な物憂げな調子で小一時間。

 昼食には遅く夕食には早い。結論が出るのはすぐでも、解決にはまわりくどいやり取りが交わされる。一晩中瞑想につき合わされるのはまっぴら御免だ。

 扉が強く叩かれた。

 探偵だ。私が外に放り出した。

 片手には瓶詰め。もう片方にはフォーク。状況証拠だけで牢屋行きだ。現在の設定はケース――何番だったか?

 奴は私がこれ以上体重を増やさぬよう、摂取カロリーの高い食品類を親の仇のごとく見張っている。設定解除の文面は奴の頭の中にあった。膨大な量の資料を探す手間を考えれば、外へ出すほうが合理的だ。

 誘惑の品を手放して手を拭く間、しつこく叩かれ続けた扉が若干へこむのだとしても。

「うるさいぞ!」

 おあずけだ畜生め。

 扉を開けると、探偵が電報を無言で差し出す。持ちかえたトングで受け取った。言葉を発すなという命令は効力を発揮している。

 至福の間食についても匂いで気づいたようだが、彼は賢明にも何も言わなかった。緊急の用事に際してはおとなしい。

 紙は調理机まで慎重に運んだ。

 いずれの品も事件に関わる重大な証拠品になるかもしれない。事件とは「探偵にとっての」事件だ。私も馬鹿ではない。紙は厳かに開いた。もちろん指紋を残さぬよう古代から伝わりし文明の利器でもって。

 ――窓辺に注意せよ。SH。

 とっさに瓶詰めのあった窓際まで体を滑り込ませ、身を潜めて下からカーテンを引く。

「SH」が「洒落てるホモ」の略でないことは明らかである。「喋りすぎのふとっちょ」という可能性は消えないが。

 暗号文の解読は「しゃがめヘナチョコ」で合っていたようだ。顔を上げて外を覗こうとすれば、探偵が私を押し倒す。

 一発の銃弾がベイカー街の窓を襲った。

 発射音はなかった。空気銃だ。私は部屋にたち込める香りに舌打ちした。

 割れたのは窓ガラスだけではない。無惨に散った瓶詰めの中身が床に滴り落ちた。向かいの建物から悲鳴。恐怖より怒りが勝る。

 すべては頭の黒い悪魔――頭文字はSP。正式名称すなわち探偵の名前はシャクレ=ポロネーズ――のせいだ。

 任務遂行に邪魔が入った時点で作戦は中止すべきだった。何が起動のきっかけになったというのか。

 ポロネーズ探偵の説明は後だ。一言で言えば市民の味方。三流週刊誌が探偵イメージ確保のため流行を煽ったのだ。

 糸を引いてる会社は莫大な利益をあげていた。

「火星の腕はカラッキシ。火星の腕はカラッキシ」

 私が嫌がらせでインプットした言葉を、ポロネーズ探偵が嬉々として反復し始めた。体を突き放してよく見れば、銃弾がその額を撃ち抜いている。

「家政だ、家政。少し黙ってろ!」

「アイ・アイ・サー」

 いい気味だ。守ってもらったからといって礼を言うつもりはない。

 奴――彼は私の命令をよく聞く。時と場所と場合によってはだが。オイルサーディンという固形食材の再現は女家主のミセス=ハードソンに任せたほうがいい。家事には全く適さない。

 たとえ設定ナンバーの容量が重めの――そう、思い出した。『サイン・オブ・ザ・フォー』だ。緩慢な動きで拾い上げた一発の銃弾も彼にかかれば――。

 キラリとその目が光った。

 誇張ではない。

 青い紅玉という青いのだか赤いのだかわからぬ代物が埋め込まれているのだ。私のポロネーズ探偵は何もかもが特注だった。流通しているものの中には目玉が黒真珠のものもあるらしい。

 彼は残念ながら壊れていなかった。非常に残念だ。

「JM社のマークです、サー。応戦しますか」

 私は焦った。

「ノー。しない。こちらから攻撃はしない! 命令を復唱せよ」

 私はこのとき別の言い方をすべきだったのだ。「鳥は飛び去った」とか「ノーベリ」だとか。

 犬の戯れ言と侮ってはいけない。かの土地の名前はポロネーズ探偵の頭脳回路に影響を与えるのだ。よくも悪くも。

 ――ポロネーズ探偵が人類史上最大の功績にして最大の失敗作と呼ばれる所以はこれである。

 彼の頭脳は常に我々の三万光年先をひた走っている。単純明解な命令の裏側を読む。彼が導きだす正しい答えは製作者にもわからない。すなわちどんな言葉も暗号化されているのだ。

 たとえ円周率が割りきれる日がきても探偵は永遠の謎だ。

「命令を受諾しました。サー」

 ポロネーズ探偵は言った。厳かに拡大鏡を取り出す。カッと開かれた紅玉の色が青から赤へ変わった。

 私の脳裏を二年前の悪夢がよぎる。旅行に出掛けた先での不運だ。詳細こそ省くが手荷物のすべてを失った。そしてこの恐るべき究極の無駄機能から逃げるため、滝壺へ落ちるしかなかったのだ。

 回想はそこで途切れた。

「硫酸水素バリウム・発射!」

 小道具により増幅した光線は、僅かに残っていた窓を突き破り遠くに放たれた。言葉に意味があるとは到底思えない。地を揺るがす轟音。高鳴る悲鳴。軋む高層住宅。

 説明がまだだったが、この下宿は地上221階である。

 私はなすすべもなく床へ突っ伏した。






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