【事件簿】


『探偵とこいぬ(前編)』




 私が知人から譲り受けたのが、ブルドッグの子犬だった。

 近年になっても、ホームズがある事件で毒薬を使い、実験のような形で小さな生き物を殺したと、非難の手紙を貰うことがある。そういった場合に否定しないのがホームズなので、私は時にペンを取る必要に駆られるのだ。

 彼は慰みものとして生き物を飼うことこそなかったが、愛情に乏しい人間ではない。

 私と妻の出会いとなった事件が終わったころ。私が下宿の同居にと連れてきていた、可愛い愛玩動物がどうなったのか。

 その話を今日はしよう。

 テムズ河での死闘を繰り広げた後、私とホームズどちらの弾が当たったのかわからぬが、男の遺体が数日後に引き上げられた。

 ホームズと私は、その顔が水に膨れることなく、冷たい眼をして私たちの両方を見ていることを確認したのだ。

 その眼に惹き込まれそうになった。

 ホームズが私の腕を掴んで無理矢理馬車に乗せなければ、ずっとそうしていたかもしれない。彼は、身を守るためとはいえ殺人の罪を私に着せたくないのか、咳ばらいした。

「ワトスン、僕は目がいいのだ。君のでなく僕の弾が当たったよ」

「どちらの弾でも構いやしないが、大事なのは奴の毒針が私たちのどちらにも刺さらなかったことだ」

 ホームズは違いないと笑い、ベイカー街の下宿に着くまで眠っていた。私が着いたと声をかけると、スッと目を見開き「嫌な夢を見た」と言った。

「自分の身が滅びてまだ、水の底から手を伸ばそうとしている」

 君らしくもない、と私は呟いた。「怨みに思う人間の執着につきあいたいなら、夢で伸びてきた手は僕が握ってやろう」

 御者に降りる催促をされ、ホームズは差し出した私の手を握り、苦笑しながら地面に降りた。

「幽霊の相手までしていられないよ」

 下宿の扉を開けると、子犬が飛び出してきた。飼い始めは私に懐いていたのだが、気づけばいつの間に飼い馴らしたのか、ホームズの命令だけは聞いている。

 コートを脱ぐ間待てと言うだけで、子犬は素直に尻尾を振って座り、二階に上がる彼について行った。私より先に駆け上がる姿を見て、ハドスン夫人が笑った。

「私ですら帽子を取る間は待ってくれますよ」

 もはや私の順位は餌をくれるハドスン夫人より下なのだ。

 部屋では主人の足元が定位置だ。彼がパイプを吸うため自室に入るのについて行く。戻って新聞の整理をするのに、おとなしく床を占領し、体を舐めていた。

 何をするにも今日はやけにホームズの後を追うな、と眺めていると。私は椅子の上で、船を漕いでいつの間にか寝ていた。

 ――自分の叫び声で目覚める直前、黒い手と光る眼が襲ってきたように思う。

 辺りは暗く静かで、上げたと思った声の反響もなかった。ホームズがマッチを擦る音が響き、夜の戸張が降りた室内は明るくなった。

「どれくらい寝てた?」

 私の声に、ホームズは微動だにせず、子犬を見つめていた。

「ワトスン。僕は決して迷信深い方ではないが」ホームズは静かに言った。「悪魔は一番力の弱い者をさらっていく」

「どういう意味だい」

 ホームズは答えず、足早に部屋を出た。階下からハドスン夫人を寄越し、自分は深めの皿を持って部屋に入る。事情の飲み込めないでいる我々をよそに、子犬の前に置いた。

「ホームズさん、餌なら朝も昼も与えました」ハドスン夫人は眉をひそめた。「女王もかくやという食べっぷりでしたよ」

 子犬は小首を傾げて、腰を床に落ち着けたままだった。皿に入っているミルクに見向きもせず、厳しい表情のホームズを見つめる。

「ワトスン、聴診器を」

「元気そうじゃないか。君を迎えに玄関まで来たろう。まったく、どちらが主人だか……」

 早くと怒鳴られた。ハドスン夫人と顔を合わせ、私はしぶしぶ自分の部屋に行った。

 ホームズは真剣な顔で聴診器を子犬に当て、彼の腹で横抱きにされた子犬はその指を舐めた。

 ホームズはうなり、大丈夫そうだと口にした。子犬の頭を数回撫で、私の顔を見上げる。

「ああ、気のせいだ。よかった」

 ほっとして緊張が緩んだ目に、ハドスン夫人と私も笑った。

 私は屈んで、念のためだと子犬を持ち上げた。不本意なことに私が抱くと若干暴れたが、触診しても聴診器を当てても、心音は通常通りだった。

「動物も専門だったのかい」ホームズは立ち上がって、マントルピース上のパイプを取りに背を向けた。

「ホームズ。探偵の推理力と人間相手ではあるが医者である僕の診断と、どっちが正しいと思うんだね?」

 ほら、と子犬を床に降ろし、それは唐突に起こった。立つと思われた子犬は横に倒れ、宙を掻くようにして足をばたつかせた。ハドスン夫人が息を鋭く飲む。

 反射的に抱き上げようとした私の手を払い、ホームズが子犬を抱き抱えた。「君より今日死に近かった僕の勘が勝った」

「どうすればいい」

 子犬は息を荒げることもなく、気持ちよさそうに首を回した。揃えた手をホームズの手首に置いて、撫でられるままになっている。

 ホームズは何度も何度もゆっくり体をさすり、ため息を吐いた。

「別れが近いなら、早く楽にしてやろう」

「馬鹿な。まだ産まれていくらもない子犬だぞ」

 ハドスン夫人が唇を押さえて覗きこんだ。「病気だったのに気づかず食べさせ過ぎたからですか?」

 ホームズは頭を横に振り、床に座り直した。眠るように小さく息をしている生き物を抱え、両手で体をほぐしてやる。

「こいつが身代わりになって逝くのなら、君に謝らなくては。ワトスン」ホームズは言った。「今日連れて行かれる予定だったのは、僕かもしれないよ」

「あるいは僕か、ハドスン夫人か、若いメイドであったに違いない」

「――君の恋しい女性でなくてよかった」

 私たちは神妙な空気の中、死にかけている子犬の体を極力温め、呑ませられそうな人間の薬を少し与え、手をこまねいてじっとその時を待とうとしていた。

 ハドスン夫人が、毛布を持ってしきりに何があったと聞くので、私は恥ずかしながら見た夢を話した。

 子犬をずっと撫でている探偵に聞こえぬように、私に言った。「ホームズさんは気になさらないと思っていました」

「ああ見えて捜査に犬を使ったりしますよ。可愛いとは言わないが、しかし」

「そうではなく」

 私はうなずいた。確かに、ホームズは巷をにぎわせている霊的な話を嫌うし、きわめて現実的な考え方をする。

 彼は険しい顔色を崩さなかった。

 ハドスン夫人は迷うそぶりを見せたが、ホームズの足の上の子犬が急に手足を伸ばそうとする姿を見て、近づいた。

「ああワトスン、痙攣だよ。毒になるものが君の医療鞄にないなら、パイプの灰かマッチの黄燐で殺そう。それとも」ホームズは声を荒げることもなく、「こっちが早いか」と冷静に言った。

 子犬の細い首を指で摘むか、手の平で口を押さえるか。青白く骨張った片手が悩む。

 一度大きく深呼吸して、その手の平をまだ動く鼻先にかざした。







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