【事件簿】


『探偵は如何にして女と寝たもうか』




 情報を聞き出すために、屋敷のメイドを相手に話を聞き出していた。

 その気のあるそぶり――例えばこめかみの後れ毛を指に巻いてみたり、服のリボンの先に口づけたり。そういういくつかの駆け引きに応じて、睦言の合間に質問を投げかける。

「それで、旦那さまは何時頃にお戻りになるのかね」

「いつも遅くて……」

「なるほど、では時間はたっぷりあるわけだ。ところで君の瞳は――今夜の月より綺麗だ」

 ワトスンが山のように仕入れている臭い台詞の数々を思い出そうとするが、どうでもいいことは忘れていく機能的な頭脳のおかげで、ろくな言葉が出ない。

 そこを逆手にとって、美しい人を前にすると口下手になるのだと俯いて見せる。これもワトスンのよく使う手だ。彼はいつだって本気なのだから恐ろしいが。

「まあ……ふふ。可愛らしい」

「褒めすぎじゃないか」

「頬が赤いわ」

 皮膚が薄いために、そう見えるだけだ。ワトスンは私の見た目を描写するときに、その表現を使う。

 だが結果としてこれは興奮したときの生理現象。気が緩むと顔に出やすいということについては一切を省くのである。

 特徴ある鼻を目立たせないように、つけ髭を着用していた。その上に小さな唇が触れる。あと一歩。もう一歩で聞きたい言葉が聞き出せる。知りたい情報を入手できる。

 私はつい身を乗り出して、彼女を壁に押しつけてしまった。

 誤解した相手の口から、明日は非番なの、と聞きもしないことをが漏れる。そうじゃない、聞きたいことはそれではない――唇を奪おうか迷う。

 恋という虚像に陶酔している女を、操るのは至極簡単だ。

 踏み出しかける境界線を越えなかったのは、後始末が面倒なのと、これを知ったときの友人がする反応が気にかかったから。

 朴訥で、冗談の一つも打つことがない相棒。彼は女性との出会いを楽しんでも、相手を傷つけることは決してしなかった。

「――」

「ね。聞いてるの」

 これは仕事だ。メイドも気分がいいだろう。ひと時の夢だ。それを与えるのは容易なのだし、誰かに軽蔑されることが不安なら黙っていればいい。

 だが、ワトスンはまるで僕が……私が女性を相手にちっとも雄々しいところを見せられず、負け惜しみのように独身主義を貫いている風に書く。

 それは事実ではない。依頼人から好意を向けられても、応えることができないだけだ。

 それで間違いを犯してみろ、安定のない職業の評判はがた落ちで、二度と女性からの依頼は請けられなくなってしまう。

「難しい顔しちゃって。何を考えてるの」

「ああ」

 首に回された細い腕を掴んで、二度と来ないと言うべきか。私は彼女の顔を覗き込み、経験の浅い快楽に身を任せるのも悪くないかと思い直す。

 ああしかし、そんなことをして正体がばれないわけがない。実際髭は取れかけているし、万が一子供が先に出来たら?

 養育するのも妻を養うのもやぶさかではなかったが、いろんな思い出が一斉に押し寄せる。

 実際のところ勃起しなかったり、先に終わってしまったり、挿入するところを間違えたり、散々な夜の生活が頭に浮かぶ。

「熱でもあるんじゃないかしら。私の部屋で休みましょう」

「あ、うん。いやいや、それはいけない」

 ガヴァネスならまだしも、ハウスメイドが一人部屋をもらうことは稀だ。煮え切らない私の態度に業を煮やしたのか、彼女はグイと私のタイを引っ張り、今度は唇にキスをしてきた。

 割って入る舌の感触と、喘いで「心配いらないわ。一晩よその部屋に移ってもらうわよ」という調子で、彼女も遊びなのだ、こんなのはよくあることなのだと言い聞かせて。

 よし、と再度自分からキスを挑んだ途端。

「貴様! 私の娘に何をしている?」

 廊下に響き渡る執事の声に、続けて次々と扉が開く。私もメイドも壁で固まったまま、不測の事態に身を縮ませた。


***


 それで? とワトスンが葉巻を吹かしながら、呆れた表情で私を見た。

「つまり、あの屋敷にまた戻るのは不可能だということさ。ワトスン」

「屋敷中の使用人の前で誓ったんだろう? 結婚するまで執事の娘に指一本触れないと」

「誓わされたといった方が正しい。執事所蔵の猟銃で狙われたら、君だってそうしただろう」

 ワトスンは少し天井を仰ぎ、僕は不用意に見える場所で誰かを口説いたりしないと言った。

「廊下じゃ丸聞こえだろうし……納屋とか他に場所を選んで」

「論点がズレている」

「ホームズ。ともかく君は約束してきたんだ。どんな形であれ女性を捨てるような真似をしては、いずれ必ず痛い目をみる」

 私は肩を竦めてそっぽを向いた。その辺りは抜かりないよ、と苦笑する。

「火遊びに最適な独身貴族を送り込んでおいた。僕より顔も身体も手際もいいし、彼女が積極的な場合のみ相手をしてくれと頼んである」

「結局寂しい思いをするのは君一人というわけか。やれやれ。僕は健全に女性とデートをしてくるよ」

 ナプキンで口を拭い、ワトスンは立ち上がった。ナイフを振り回して見送る。もったいないことをした、としばし考え、その夜は自分に瓜二つのホームズ二世の夢を見た。

 そうして危ない橋を渡らなかったことに感謝するのである。


 全く我ながらよくできた息子だ!


End.




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