【事件簿】


『探偵とあのひと(後編)』




 自分は彫像だと思い込む努力をした。

 反応がないことを確認して、探偵は固く閉じた。眉だけ引き上げて笑った。

「ワトスン――君はあの人とほとんど面識がないにもかかわらず、物語の中で彼女を豊かに描写しすぎた。疑問に思ったのはあの事件を読んでからだ」

 どこから取り出したのか、本を示す。内容を敢えて包み隠さず書いたのは、彼の目に触れさせないためだった。

 自分の失敗を振り返りたい人間などいない。必要に迫られでもしない限りは。

「うがった読み方をしすぎだ」

「ドクター」

 冷えた室内の空気に全身が総毛立つ。ホームズの指摘の意味が私にだけは――理解できた。

「君はボヘミア王との話し合いの中では一言も口を利かないでいたが、あの日は始終相槌を打っていたね」ホームズは室内を歩きまわった。

「細かな内容を僕がペラペラ喋るより前に執拗に尋ねるので、君らしくないなと思ったものだ」

「君が話しやすいようにしたのだ。創作では特に掛け合いに気を配っているしね」

 私は暖炉の灯りを凝視したまま動かなかった。

「索引帳を調べてくれと僕が言ったとき、君は椅子の端に足をぶつけた」

 どんな仕草もいまは危険だ。

「君が素晴らしい結婚生活の悲しむべき後遺症のせいで肥ったのが原因か、はたまた久しぶりの冒険に興奮していたからかはわからない。作品にこの記述はないがね」

「依頼人が王族だと知って緊張しただけだ」

「さらに彼が『あの女を破滅させる』と発した瞬間、おとなしい君の耳が赤く染まったことも見過ごせない」

「女性は任せると言ったのは君じゃないのか」

 彼が本をどこかに叩きつけた。私は微動だにせず、肘掛けを強く握らないように、こめかみの汗に気づかれないように座ったままだ。

 正面に立った細い体に、目を閉じる。

「言えない理由があるのかい? この僕にさえ」

 ジョン、と普段は絶対呼ばない呼び方をするので反射的に顔を上げた。彼は首を横に振った。

「あの人は御者を呼んだのではない」


 ――セント・モニカ教会よ、ジョン。


「後をつけている変装した男が、シャーロック・ホームズだということに気づいたからだ。あの人は君を呼んだ――君が、御者だったのだ」

 御者のネクタイが歪み、コートのボタンを半分しかかけてなかったのは焦っていたから。馬具のひもが金具からはずれていたのは慣れていなかったから。婚約相手が慌てていたのは、すべての情報が漏れていたから。

 ひとつ確認するたびに、ホームズは家具の埃を指で掬って払った。

「ああ、ワトスン。あんなに馬車を飛ばせる人間を他に知らないよ。君は僕の冒険につきあううちに、さまざまな能力を身につけた」

「ホームズ――」

 探偵を欺いて計画を実行に移すのは、容易なことではなかった。

 彼が私をひととき置いて、彼女の結婚に立ち合うまでの短い間。ホームズが追っているという連絡は既にアイリーンの元に届いていた。

「――君と知り合う前のことだ」

 彼は首筋を掻いて、ひとつだけうなずいた。私は続けた。

「何の捻りもない単純な見方をすれば、すぐに真相に辿り着いただろう。君を出し抜くには時間が必要だったが、僕にはそれがなかった」

「彼女が無事にノートンと結ばれるよう手配したのはなぜなんだ?」

「僕が」私はようやく膝の上に置かれた写真を手に取った。「幸せな結婚をしていたからだ」

 ホームズはよくわかると言って苦笑した。「幸福な二組の夫婦を前に、僕の浅はかなプライドはズタズタだったよ」

 種のない手品に振り回されたのは、私という存在のせいだ。彼は露ほども疑わなかった。

 ホームズは私を知り尽くしていると考えていた。特にあの当時は――揺るがない友情だけが二人の関係を支えていたからだ。

「すまない」

「君が結婚して間もないころだった。久しぶりの君との冒険の計画を練るのに忙しい頭が、何もかも見過ごしていたようだ」

「本当に……」

「いや――」

 ホームズが火の消えた煙草を持ち上げる。私はマッチを擦って、近づく彼のさまよう眼差しを追った。

「知っていた、とはいつから?」

 ふと疑問に思った私の声に、彼は唸って眉間を揉んだ。煙草の先で焼いた髪の毛に叫び声をあげる。目を丸くする私に、いやね、と歯切れ悪く応えた。

「もう、そっちはいいのだ」

「いつからだ、ホームズ」

 そっちはいいのだよと笑い声をあげる。私は頭を掠めた問いを引っ込めた。

 あの人は最後の挨拶に探偵の名前を呼んだ。旧知の友人でさえ気づけぬほど変装上手の男の正体を見抜いていた。

 互いへの賛辞は受け取られていたのだ。


 ――力になってくれると思ってたよ。

 ――実によくやってくれたね、ワトスン。

 ――さて、誰だったろう?


「ああ、その。ホームズ」


 至近距離で相棒に気づかなくなくなったら、彼こそ医者になるべきなのだろう。

 私はろくに変装などしたことがなく、顔を会わせるすべての人がホームズかもしれないと怯えながら手綱を操っていた。


 ――二十分以内で、半ソブリンあげるわ。


 過去の女性について、いつか話す日が来るかもしれない。彼女は御者のふりをした私の労を多めにねぎらってくれた。彼女は探偵によく似ていたのだ。私はどちらにも惹かれていた。

 懐中時計の金貨は彼だけのものではない。紐の緩い私の財布にも――。

「あの人の写真は今日から君の机に飾ろう。ワトスン」


 酷い借りができてしまったと嘆いても遅かった。


End.




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