【事件簿】


『紳士とその弟子と14』




 隣にいれば、徹底して守る自信はあった。



 これではどちらが男かわかりはしないが、ホームズは用心が足りなさすぎる。

 若さゆえか、自分は不死身だとでも思っているのか、私が誘う前から山には登ると言い出していたのだ。

 たしかに私もモリアーティ教授と直接の対決をするかもしれないとは……考えられなかった。気を引き締めようにも、見えない相手にそこまで怯えられない。

 そもそも追ってきているのは教授なのか。


「犯罪界のナポレオンね」

「――イギリスで一番危険な男だ」


 名前を告げないまま、ホームズは繰り返した。容姿の説明は教授そのものだ。

 しかしベイカー街を男が訪ねてきた話しはしなかったし、教授が名声のない私立探偵を狙う理由も、曖昧である。

 てっきり山の半ばで例の少年でも出くわすかと考えたのだが、思えば自分がそのような姿をしていた。

 登山杖を握りしめ、誰か登って来ないか再度確認する。誰もいなかった。


「ラッセル。後ろばかり気にしてどうした」

「思ったより見晴らしがいいのね」

「疲れた。一服しよう」


 私を岩場に座らせて、宿で入れて貰った珈琲の入った水筒を傾ける。疲れた身体に暖かいものが染み渡った。

 自分は双眼鏡でさらに遠くの下界を見ている。

 イギリスでは歩調を合わせてくれないのに。先へ先へと行く長い脚に追いつくため、早く歩くのが当たり前となっていた。

 押し殺していても上がる息に気づいて、休憩させてくれたなら。この無愛想な男の何に自分が惹かれたのか、思い出してしまいそうだ。


「その気もないのに隙を見せてはだめ」

「敵にかい。ワトスンにかい?そっくりそのまま返そう」


 わざわざ滝の近くへ行こうと言ったのには、動機があった。

 どう見ても引き返せそうにない細い一本道を、どうして彼が登りたがったのか、知りたかった。これは明らかに自殺行為だ。

 死ぬつもりだったのだろうか?今のホームズにそう聞いてもノーと答えるだろうが、夫ならどう答えただろう。



 名声が轟いて、イギリス中で彼を知らぬ人はいなかった。

 本を抱えて、どうでもいい事件を持ち込む依頼人が増えた。

 モリアーティ教授の攻撃が増し、彼自身が言ったように組織全体を潰すことを先に考えた。



 どれも決め手に欠ける。足場の悪い場所におびき寄せ、探偵を抹殺しようとしている教授も理解不能だった。


「理性で動いているのよね。機械のように、正確に」

「ときどき歯車が狂うんだ」


 何かひっかかるものがあった。それがどこで聞いた言葉か、覚えていない。

 私が歯車を止めるのは、夫であるホームズの前だけだ。

 この人は少しでも、私のことを覚えていてくれるだろうか?

 淡い期待で馬鹿な考えを起こさないよう、感情を制御する。

 目的地にたどり着くと、ホームズはため息を吐いて、手帳を取り出した。予定を確認してるのかと気にも止めず、代わりに双眼鏡を取る。

 おかしなことに、先程はいなかった誰かの影が遠くに見えた。顔を見るまでには至らない。ホームズに知らせようと振り向いた途端、私は驚愕に目を剥いた。


「――ホームズ?」


 探偵は、見覚えのあるメモ数枚と、杖の置き場を思案していたのだ。

 嫌な予感は当たっていた。私の視線を感じ、彼はうなずく。


「話をする前にまず選んでくれ。僕だけ落ちるか、君だけ落ちるか、一緒に落ちるかを」


 この滝壺の下へ、とホームズは目をさ迷わせながら言った。

 通常の彼ではない。何がそこまで追い詰めたか、考えると冷や汗が出る。

 私はひとつ、他の考えを見逃していた。ホームズの自虐的な行為の理由はもっと単純に。

 鬱が悪化してコカインを使いすぎ、極論に走ったのじゃないかということを。





 教授の姿形によく似た男の、若い顔がこちらを向いた。










prev | next


data main top
×