【事件簿】


『紳士とその弟子と13』




 探偵が夫について聞いてくるたびに。



 私は迷わず年をとったワトスンの話をしていた。ホームズが私の話から、夫と年が離れていることを当てたので、違和感がないかと思ったのだ。

 嘘と真実を混ぜながらのほうが、その頭脳をごまかすのに役立った。

 有名であることにかけては、ワトスンも負けてはいない。代筆者の名前ばかり取りだたされていても、探偵の相棒は絶対不可欠なものだった。


「この何ヶ月かで、君はロンドンでの生活に慣れた」

「いずれ帰るわ。あなたが帰してくれるんでしょう」


 ホームズは宿主から借りてきたヴァイオリンを鳴らし、窓際の椅子で外を見つめている。

 私はベッドで読んでいた本を閉じ、ランプを吹き消した。歩きすぎて感覚のない足先を指で揉んでから、横になる。

 ホームズが言った。


「もしワトスンと結婚する意思があるなら、手を貸すこともできる」

「重婚になる」

「二人で国の外で暮らせばいい。百年くらい隠れみのにできる別の家や名前や過去は、僕が準備してあげよう」

「どうしてそこまでするの」


 私は毛布に包まって、欠伸を噛み殺した。

 ヴァイオリンに苦情が出るのも時間の問題。宿主も後悔してるはず。


「――ワトスンが本気だからだ」


 それは矛盾している。

 ホームズは別のメアリーとワトスンが結婚することに、異議を唱えた。あれは表向きの話だったのか?

 ワトスンの創作物は脚色が強すぎて、どこまで本当のことか私にもわからない。

 物語を面白く語り、キャラクターとしての探偵を活かすために――どれを捏造したのか知らないのだ。

 実際のホームズはそれだけで長編がかけるほど、ワトスンの結婚に難色を示したと聞いている。話に合わない。


「夫について聞いた後に、なぜ」

「その人が実在するとは思えない。君の妄想か、あるいはイギリスにまだいたとして……ラッセル。自分は捨てられたと考えるのが、冷静な考え方だ」


 私は身を起こし、枕を投げつけた。この男は、言っていいことと悪いことの区別もつかないらしい。

 だが考えてみれば、そう結論づけてもおかしくないのだ。そしてホームズは告げた。


「君を橋から落としたのは彼だ。なぜ理解しようとしない。ワトスンですら気づいている!」

「――」

「そうとも。彼はかわいそうな女性をほおっておいたりしない。君に対する気持ちがまだ同情であるうちに、考えなければならないことがある」


 違う、と口にしなかった。一理あると思ったのだ。

 この時代に取り残されたように考えて、こちらで生きることを決意したわけでもない。

 そういう事態が自らに起こったとして、別の時代に置いてきた家族や友人を、なぜあっさり忘れられるというのだろう?

 それでいて、私には帰ることしか頭にない。


「お金を貯めていたのは、よそへ行くつもりだったから。ワトスン先生のことがなければ、もう少し居てしまったかもしれない」

「ラッセル」

「あなたの言う通りよ。認めるには時間がかかりすぎた」


 なにもかも現実を変えてしまった上で、仮に元の時代へ戻れたとして……元のホームズがいるとも思えず。

 その事実を考えるのが恐ろしくて、行動には移れなかった。

 違う世界から来たのだと話す勇気すらいまだに持てないでいる。優柔不断は夫の一番嫌がる行為だと知っていてまだ、決断が下せない。

 月明かりに逆光して、ホームズの顔は見えなかった。

 ヴァイオリンのシルエットだけが浮かび上がり、胸の痛みで身が裂けそうになる。


「それでも私は夫を愛しているの。彼が迎えに来る方法はない。その事情を――明日話すわ。ホームズ」


 涙を出すまいと息を吸い込んだ。いい手だとは考えられない。それでも頼める人が他にいない。





「ライヘンバッハの滝でね」








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