【事件簿】


『紳士とその弟子と12』




 私は座席で身をすくませていた。



 ホームズにつきあって向かう先を翌朝知ると、不毛さに目眩がしたのだ。


「――まさか下見なの?」

「なんのことだね」

「どんな依頼か知らないけど、やめた方がいいわ」


 乗り込む前に言うべきだ、とホームズは言った。もっともだ。先に教えてくれてさえいれば。

 私は行き先を聞いてすぐに帰ろうとした。いくらロンドンの空気が澱んでいようと、あそこよりはマシである。


「このまま旅行へ行くのはどう」

「旅行か――これが終わったら、サセックスへ行こう。将来はあそこで蜂を飼って暮らすつもりなんだ」

「チベットへも行っておいた方がいいし、妖精の写真に耐性がつくようにするのがベストよ」

「しかし、我等が犯罪界のナポレオンは待ってくれない。まずは逃げるのが先だ」


 ホームズは命を狙われていると言った。ここ数週間の危機の話を、克明に描写する。

 私は深くため息を吐いた。

 探偵としてまだ名前も上がってないうちから、教授のお出ましである。物語の法則を知らないのか。

 悪党はネタが尽きたころ突発的に登場するものだ。出番が早すぎる。

 私は教授の存在すら疑っていた。ワトスンの書き方を見る限り、ライヘンバッハの出来事はよほどままならぬ事情があったと思ったからである。

 従者のような恰好でホームズの荷物持ちをさせられていたが、たしかに誰かつけてきているらしいのはわかった。

 遠回りでスイスに入るくだりもまるで同じ。違うのはワトスンでなく、傍に私がついていることだ。

 在りし日のワトスン。

 彼のように魅力的で情熱的なところが、目の前の男には欠落している。

 懐中時計を見るたびに、揺れるものが映った。心に焼き付いて離れない。


「聞きたいことがあるんだ」


 もうよして、勝手にして、と叫びそうになった。振り回されるのはいつも私なのだ。


「恋をしたことがあるかと君は尋ねた。僕には感傷に浸るような思い出はない」

「どうだか」

「――ワトスンと何かあったかい」

「人妻に手を出す人ではないわ」


 探り合う緊迫した空気に、一瞬目が合った。自分のことは話さず、相手のことだけ聞き出そうとする。

 似たようなことを互いがしている限り、すべて平行線だった。


「君がそう言っているだけだ。そしていくら手を回しても、メアリ・ラッセルという人物が米国から来た形跡がない」


 あとは無言だった。

 手の中で見え隠れする金貨を見て、予定はもっと早まるのかもしれないと考える。

 過去の人がすべて生きている世界。自分が関わった事件や、夫が失敗した事件をすべて成功に変えることも私にはできるのだ。

 あるいは気に入らない物語の事実を書き換えることすら――難しいけども不可能ではない。

 海峡や国境を越え、気持ちの良い山の気候に囲まれるまで長い旅路だった。

 ときどき目の端に男の影のような姿を見る。その都度ぞくりとしてホームズを呼び寄せるのだが、再度見ても誰もいない。

 動き方を間違えれば、私と出会うより先に彼が死ぬ可能性もあるのだ。

 命を狙われているような感覚はなかった。銃撃されることも、吹き矢で狙われることも、あとは何だったかしら――ビックリ箱に毒を塗られることもない。


「何を笑っているんだ、ラッセル」

「平和すぎて感覚が麻痺してきたの。夫といるときは酷いことばかりだったから」


 少なくとも、命の危険を知りながら山登りはしたことがない。それがどれだけ馬鹿げた真似か、ここで学んだのだろう。

 ホームズは眉をひそめて、宿に戻ると言い出した。従者という設定をどこでも変えずに来ているため、同じ部屋をとっている。

 二人きりになるのはどんな形でも億劫だ。

 男女の話ではない。

 そうなりもせずに共に寝ることが当たり前だった私は別として、若いホームズが何らか意識することも考えに入れていたのだが。





 まったく別のことで悩まされる羽目になった。








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