【事件簿】


『Bの捻挫7』


 ホームズの怪我が治ったころに一人の紳士が訪ねてきた。まさかとは思ったが、何となく見覚えがある。私より遥かに記憶力のいい男が、何も言うなと首を振った。

「貴方はこの間の――これは失礼しました」
「ホームズさん」

 男が真面目な顔で彼を睨みつけながら、一歩前に出た。

「貴方はご存知だったのですね」
「なんのことでしょう」

 脚を組んで椅子に座ったので、私は前の無礼を詫びる代わりに紳士のコートを取った。彼は嬉しそうになぜか私と握手をして、解決しました、ありがとう! と叫ぶ。

 私は戸惑いながら返事をした。

「いったい」
「あのおかしな推理ですよ。評判を過信しすぎたと早合点しました。お詫びしたい」

 私のきつい視線を無視して、ホームズは咳ばらいしながら言った。「ああ。そのことなら、もういいですから。お帰りください」

 依頼人を部屋から追い出す。ありがとうありがとうと叫ぶ声が聞こえた。振り返ったホームズは肩を竦めて、何か勘違いしていたらしいな、と笑った。

 さすがの私も騙されない。

「君の当て推量は全て外れたじゃないか。ポケットに入っていたなら君に感謝するわけがない」
「ワトスン」
「待て。裏があるんだな。この件に関しても嘘はつくなよ。僕は半日宙ぶらりんで」
「僕らの間には、躯の関係だけなのかい」

 思わぬ反論に躊躇った。それは違う。私はうなった。「欲しいと思っちゃいけないのか。君は体調がすこぶる悪かったが――ベッドでの会話も僕には重要なんだ」

「ドクター」
「……君がそう呼ぶときの意味を、よく考えるべきなのだろうね」

 ホームズは耳の裏を掻いた。首を振って椅子に座り直す。

「彼が自己紹介する前に調べはついていた。失せ物はすでに彼の家に届けてあったし、こちらの印象を悪くして驚きをより深めようと」
「つまり、あの場所から一刻も早く帰すことこそ必要だったのか。だからわざと」

 私の責める言葉に違うと言った。


「僕にも必要だからさ。君との時間が」


 口を開きかけて閉じる。聞き流せば二度と同じ質問は出来ないと思った。

「ホームズ。君の傍に僕がいる価値はあるんだろうか」
「――」
「答えてほしい。君から聞いたことはない」

 逆はあった。その都度、命の危険を伴っても君について行くと答えたのだ。

 彼は、ワトスンと呟いた。

「価値があるからではないよ――君と居たいからだ」

 私は不意をつかれて唇を引き結んだ。外側からはわからないだろうに、彼の千里眼のせいで見破られてしまう。

「――怒っているかね?」

 不安な色など含まない。気持ちを完璧に隠して、私のほうをちらりと見た。怒っているか? 怒ってるに決まってる!

「なぜ笑っているんだ」
「君が……可愛い。ホームズ」

 憮然として背けた頬を両手で捕らえ、自分のほうを向かせた。

「もう一度言ってごらんなさい」

 彼はため息をつき、私の求めたこと以外で別の言い方を考えると、私の手を掴んだ。

「ドクター。君の治療は効き目が一次的なんだ」
「たまの薬じゃ熱は治まらないでしょう」

 注射は必要なさそうだがと、ポケットから出した飴の瓶を振り回す。突き出した手の平には出さず、椅子の前に膝をついた。一つ含んで自分から取りに来るのを待った。低く呻いて私の肩に手を置き、唇を合わした。


 次の触診は今夜予約しますと彼は言った。


End.



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